ごくろうさまでした。
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ご法事で三部経をおつとめするときに打つ節拆(せったく)が傷んできたので新しいものに替えました。

5~6年打ち続けてきたものです。端の方がささくれ立ってきていて、ときどき指に刺さったりすることがあり、また、音もなんとなく張りがなくなって曇ってきたような感じなので、昨日でお役目を終えてもらうことにしました。『ごくろうさまでした。』

まだ使うことができたのか、もっと早く替えるべきだったのか。

正当な判断というものはないと思いますが、その判断は何を基準にするかによってずいぶん趣の変わったものになります。

節拆の役割・目的を考えると、つまり仏徳賛嘆のお手伝いとして、お荘厳の良い音が気持ちよく出なくなったら、出しにくくなったら、潔く替えるのがスジでしょう。

愛着も含めてモノとしての節拆そのものの存在を大切にしたいのなら、壊れて音が出なくなるまで使い切るというのが美しいのかも知れません。

ボクは、どちらかというと前者の立場をとります。役割を果たせなくなったら『ごくろうさま。』と気持ちよく言い切る度量みたいなものを持ちたいと思っています。

それは、単に古くなったらダメとか、衰えたからダメということではありません。そのものの価値ではなく、果たしていきたい目的に向かっているかどうかが大切だと思うのです。

ヒューマニズムは一見カッコイイですが、いつか限界が来ると思うのです。とは言え、情に溺れることは心地いいからなあ・・・。

訳がわからなくなってきました。要するに、節拆を新しくして、それはそれでヨシなんですが、なんとなくさみしいということ。翻って、ボク自身が、目的を見失ってきたら、少々さみしくても、役割は譲っていかないといけないということ。引き際を間違えないということかな。難題です。


節拆(せったく) 2007/5/2




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by e.wash-r | 2009-04-26 23:50 | ようこそ正蓮寺へ | Comments(0)
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