おばさんの通夜。宇宙船を見上げているような感じがする市の斎苑にて。
おばさんの家はお西です。
ボクは親族縁者のひとりとしてお通夜に参列していたのですが、僧侶の方の一挙手一投足や場の雰囲気を感覚的に観察していたように思います。
(中学生の次女は、お通夜の間中、「父ちゃんはどう思っているんだろう?」とボクの顔色ばかり見ていたそうです。)
『浄土真宗本願寺派のお通夜』というものを、ボーズとして客観的に眺めている自分がいました。そういうボクのスタンスには問題があると思いますが、勉強になりました。勝手な言い分ですが、おばさんに申し訳なくも感謝です。
あらためて、葬送儀礼は純粋な宗教儀礼ではなく、きわめて情緒的な社会儀礼であると再認識した次第。
しかし、ボクは情緒的(感情的・感傷的)な社会儀礼と宗教が乖離しているとは思いません。浄土真宗は阿弥陀さんのお仕事ですから・・・。
小山芳立師のblog『
芳立五蘊』の「
負けたときどうするのか」という記事より
-幼い子供を持つ某女史との対話──
某:「こんな時代だから、どんな社会状況でも勝ち抜く人間に子供を育てるべきだと思うんです」
私:「なるほど。で、負けたときはどうするんですか?」
某:「だから、そうならない人間に育てなきゃいけないんです」
私:「なるほど。で、負けたときはどうするんですか?」
某:「だから、そうならない人間に育てなきゃいけないんです」
阿弥陀さんは『某』さんのようなことはおっしゃらないと思います。
たとえそのひとはそう思いこんでいるのだと許容しているとしても、『某』さんのようなことばを聞きたくない時と場所があると思います。
・・・例えばお通夜。
おばさん、ありがとうございました。なんまんだぶ。
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