覚勝寺住職常楽院釋大真師通夜
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覚勝寺ご住職の通夜におまいりしました。

覚勝寺若院のSm師とS師は、ボクが最もお寺のことを学んだ先輩・法友です。先日のS師のお父さんにつづいて、Sm師のお父さんがご往生。葬儀についても、また学ばせていただきました。

法友のお父さんの通夜・葬儀におまいりして、"学んだ"というのは、ほんとうなら横柄なもの言いなのだと思います。でもあえてそう言うのは、ボクとしては、"学んだ"と表現することは、ご往生されたご院さん方の願いにも、喪主であるS師、Sm師の思いにも応えることになると思うからです。


最近、葬儀論が華やかですが、なんとなく違和感を感じています。

縁者の死に会ったものにおいて、その死を悼み受けいれる作業は、儀礼論や宗教論で云々する問題以前に、ヒトとしてのごく普通のすがたですよね。

葬儀をしたいと思うところに葬儀はあるわけです。その思いによって、ひとつには宗教的に、ひとつには社会的に、ひとつには感情的に、いわゆる儀礼としての葬儀がつとまるのです。

ものごとはシンプルに考えた方がいいと思うのです。繰り返しますが、葬儀をつとめるという思い、それが葬儀の原点です。


葬儀をつとめるということになったとき、すくなくとも仏教は必ずその思いに応えてくれるものです。実に明快なことだとお思うんだけどなあ。


願いと思いが葬儀になります。願いと思いのない葬儀論は滑稽です。


有り難いお通夜でした。





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by e.wash-r | 2010-12-28 23:41 | おまいりにて | Comments(2)
Commented by 通行人 at 2010-12-29 09:27 x
先立つ人が 残したいこと 伝えたいこと それを
確認するのが お葬式なのかもしれません。
その意味では 学ぶという 表現は 非常に有難く
受け取ました。
Commented by e.wash-r at 2010-12-31 21:06
通行人さま

村八分、残りの二分は葬儀と火事と聞いています。

葬儀。たいへんなことなんですが、ボクはいいもんだと思うのです。

ある人が、葬儀の後、"葬儀は楽しんだ方がいい。ただ、その余裕がない。"と言っていました。状況が多様なので、一概には言えませんが、なんとなくわかる気がします。有り難いときですよね。

コメントありがとうございました。
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