深夜の帰宅。気力は使い果たした。脚は棒のようになっている。
「疲れたー。」とため息をついて、だらりとしたいところだ。しかし、まだ帰宅していない次女のことを思うと、つとめてそんなことはできない。
次女は、放課後のクラブ活動・コンビニに寄って適当に軽い食事・11時まで塾という高校生活を選択をした。小柄で体力もない彼女にとっては、限界ぎりぎりの生活だと思う。友だちに支えられて、今はなんとかがんばっているようだが。
11時20分過ぎ、我が家の「短い夜」。ボクの憂いをよそに、彼女はいたって快活だ。
彼女のひたむきな姿を見て、よくやっているなあと思う。しかし、これはボクたちがめざし、築き、育もうとした日暮らしなのだろうかとふと自問してみたくなる。
マイホーム主義に貫徹した暮らしを求めたつもりもないが、「短い夜」を望んだわけでもないのだ。
なんとなく、ボクはむしろ挫折する彼女を待っているような気がする。
そのときが充実していればいい、楽しければいい。そう思ってきたことが間違っていたとは思わない。ただ、少なくともモチベーションが目的ではないということには、うすうす気がついている。ボクたちは、その先に何を求めているのか、実は、考えたことがないのかもしれない。
今までとはすこし違う気持ちで山際淳司氏の言葉を、また読み返してみる。
目的も持たずにどこかへ行くということができなくなってしまったのは、妙に大人になってしまったせいかもしれない。しかし、それを寂しいとは思わない。まだ大丈夫だ。青春に嫉妬するには早すぎる。つむじ風が吹き、気がついたら見知らぬ国の入り口に立っていた。その状況に心惹かれるうちは、金曜の夜の微妙なざわめきを友とすることができる。
・・・ざわざわと、騒ぎたてるものがある。ふとあおげば、夏の葉をたたえた欅が風に揺れている。
先は見えないが、そのことへの焦燥はないような気がする。たぶん、見えない先に向かうモチベーションに何か価値を付加しようとしている危うさに不安を感じているのだ。
ざわめきをよそに、やる気だけがひとり歩きしているような・・・。
私事。
今、構造的に「金曜の夜」がないことに気づいた。・・・ゆゆしき問題かも。
Tumblr 『西蔵防だよん』
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5/6改稿