日本の社会の精神風土  -楽しくてはいけません- 
日本の社会の精神風土  -楽しくてはいけません- _b0029488_0205225.jpg


奈良の勉強会に行けなかったので、その分ちょっと大仰に論じます。

数日前、車のラジオから流れてきたN**のある番組の一節。

夏休み、こどもと山に登った。
荒れた山道の厳しい上り下り、危険な谷の渡渉等を経て3000mの高みへ。
苦労の連続の後の達成感。
こどもがおとなになったとき、この辛い経験が役に立つときが来るだろう。
帰宅すると、こどものザックにクワガタが。
神さまのご褒美だと思う。

多少脚色・単純化して、ざっとこんな話。

最近、自身の中で『あるテーマ』を煮詰めており、そのことに関連して、この一節は、ボクにとっては非常に示唆に富む内容でした。

「日本の社会の精神風土」とはこういうことなんだと、嫌悪しつつも納得した次第。


「日本の社会の精神風土」として、いちばん納得したところは、山登りは「辛い」ものであり、その「辛さ」は、こどもの将来の役に立つだろうという発想。

「苦労」や「辛さ」には、体験としての価値があり、それは役立つものだというのです。

さらに、価値には果報、つまり「苦労」と「辛さ」にはご褒美があり、その直近のご褒美が、「ザックについていたクワガタ」であり、「神さま」から与えられたのだろうと後述されています。

そんなつもりではないのかもしれませんが、「苦労」や「辛さ」のうえに「報い」というカタチの未来があるというのです。

逆の言い方をすると、現実は「「苦労」や「辛さ」のうえに成り立っていると。

穿った見方をすれば、夢が実現されないのは「苦労」や「辛さ」が足りないからかもしれないと。


「苦労」や「辛さ」がないとダメなんですか?

「苦労」とか「辛さ」とか言うけど、山へは好きで行ったんじゃないですか?

山が楽しかった。山そのものがご褒美だと言えないのかなあ、とボクは思うわけです。


ボクたちは、どうしようもない「苦労」や、やり場のない「辛さ」に出会います。ボクとしては、出会いたくないです。ない方がいいです。たぶん生きる糧にはならないと思うので。

選んで「苦労」や「辛さ」を求めることは、理由のない単なる苦行です。

苦行そのものが目的なら、したい人はすればいいと思います。ただ、自らの苦行を価値とし、しかも図々しく果報を求めるというのはいかがなものかと。


(ボクは何が言いたかったのだろう。ちょっと混乱しています。)



苦行するまでもなく、そもそもボクたちはおそらく解決できない苦を背負っています。

ゴータマ・シッダルタは、まず自らの苦行を捨てました。

阿弥陀さまは、「群生を荷負してこれを重担とす」と呼びかけてくださっています。



が、自ら選んだ苦行の、その苦労や辛さまで背負ってもらっていいんだろうか・・・。





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by e.wash-r | 2013-09-27 22:18 | そらごと、たはごと | Comments(4)
Commented by 釋行精 at 2013-09-29 00:27 x
「神さまのご褒美」だと思われた方は浄土真宗の教えを知らない人だったのでしょうか?。他流の人がどのような精神であってもそれをどうこう言う必要はないと思いますよ。

日本では浄土真宗のお寺が一番多いからと言って、日本人の精神がみな浄土真宗の教えに沿っているのが普通だと考えるのは誤りですね。

でもこのブログの視点は「浄土真宗の教えを知っている人でさえ、苦労の末のご褒美を期待している!」ということなのでしょう。
そのことは私もそう思います。

しかし、その方達は教えを知っているだけで、信じていない方々なのではないでしょうか?もっと言えばご信心をいただいていない人なのでしょうね。

最後の一文の「自ら選んだ苦行」というのは今回の場合の「好き好んで険しい山を登る」ということですよね?
ご信心いただいた人は、好き好んで山に登って「登山の苦しみ辛さを阿弥陀様に背負ってもらおうとは思わないのではないでしょうから、そのような心配は無用だと思いますよ。

私が書いている内容が、今回のブログの趣旨と違っていたら申し訳ございません。
Commented by e.wash-r at 2013-09-30 00:57
ご指摘ありがとうございます。当方、みおしえと社会は関連づけるものでないと思っています。みおしえを以て断罪するというスタンスはないつもりです。その意味で、拙文最後の一行、錯綜していますね。

当方の趣旨は、番組の【この辛い経験が役に立つときが来るだろう。】の部分への懐疑です。「辛い」ということばがなかったら、たぶん聞き流していたと思います。「楽しい」とも言えるところを「辛い」と言ったところに、ボクは「日本の社会の精神風土」を見たように思ったのです。

番組にそのような意図があったかどうかは別にして、ボクは、「辛さ」が価値を持つ風土なんだろうなあと感じたのです。神さま仏さま稲尾さまのどなたであっても、「辛さ」に褒美という発想をボクは心地よく思いません。(例えば、災害に遇い不安をかかえ辛い日々を送る人、罪を犯しその罪におののき辛い日々を送る人に、「辛さ」へのご褒美ということになるでしょうか。)

ラジオ番組の「辛い」ということばの扱いに、ボクは「日本の社会の精神風土」の一端を感じ、ボクはそれを嫌悪するという内容です。愚見とご理解ください。


釋行精さま
Commented by 釋行精 at 2013-09-30 23:05 x
そういうことでしたか、確かに辛さに価値をみいだしてますね

日本の米作りなんてその典型
『米作りは本当に辛い。』とか言う人いますよね。しかも、子どもや孫に作業を手伝わせて『この辛い経験が糧になる』と誇らしげ。そんな辛い米作りなら辞めればいいのに、赤字になりながら作付するんですから
農業なんてのびのびして楽しいのに

アスリートの方もそう。ツイッターで『毎日毎日辛い練習ばかり、休みなんて1日もない。表彰台に登る一瞬だけ報われる気持ち。』ってつぶやいてました。じゃぁ、表彰台に登れなかった人たち今までの努力が無駄ってことですか?って言いたいです。
更に母校で『夢は絶対に叶う。努力は報われる』なんて講演するんですから、ますます辛いことに価値があるんだと勘違いしちゃいます。

小さいお寺だってそう。兼業されてる学校の先生がいましたけど、休む回数が多くて親御さんから苦情。『お寺も大変で辛いんですけど、自分の子どもの代にまで寺を残して、引く継ぎたいんです』って。
そんな辛いことなら子どもに引き継がせるなって感じですよね。
お寺の事は仏法に親しむ事なんですから、楽しいはずなのに
Commented by e.wash-r at 2013-10-04 01:08
ありきたりな言い方ですが、ボクたちを取り巻く社会が、今、どんな価値を大切にし、そこに生きるボクたちは、どんな精神構造を持っているのかということに興味を持っています。

換言すると、現代の日本のムラ社会はどういうものかということへの興味です。

信仰はそうではないと思いますが、少なくともお寺は、旧来のムラ社会の象徴的なものであったと認識しています。

おみのりとは少し違う次元で、俗物としてのお寺のことも考えていかなければならないような気がして、なんとなく考え込んでしまうわけです。

その延長でblogを書くこともあり、単純化して考えるのが好きなので、今回のような文章になりました。好き嫌いはありますが、肯定でも否定でもありません。

後だしジャンケンみたいですが、世の中とどうつき合おうかなあと考えています。

どうしても独善的になります。気がつかれたこと、また、ご意見ください。


釋行精さま
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