沖縄 -ヤンバルの北・辺戸岬-
那覇の若い女の子たちに聞きました。

Q 「辺戸岬ってどんなところ?」

A 「寒い。」
  「昔、行ったことがある。」
  「ドライブでは行かない。」
  「天気がよければ、与論(鹿児島)が見える。」
  「名護から北は対向1車線の道になる。」
  「何にもない。」

ちょっと覚悟をして、目標の辺戸岬へドライブ。   
名護から、海岸沿いの心地よい道を約1時間、ヤンバルの森の北の端に辺戸岬はあります。岬には「祖国復帰闘争碑」が建っていました。小雨交じりの天気でしたが、すこし荒れ気味の海の向こうに与論島が見えました。
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サンフランシスコ講和条約の下、沖縄の方々が、この地から与論島を見た眼差しを思いました。

沖縄本島最北の地を目指す、という軽いノリで訪れた辺戸岬でも、ボクたちは「沖縄なるもの」の琴線に触れることになったのです。

帰り道は、ヤンバルの深い森と米軍基地を抜けるコースを選択。
岬の売店のおばさんに、
「すごくいい道だけど、スピード違反の取り締まりとかしてますか。」
とたずねると、
「クイナやカメを轢かないように気をつけて走ってくださいね。」
と、窘められました。・・・絶句。


「祖国復帰闘争碑 」の激しく熱い碑文というか檄文、載せておきます。

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            全国のそして全世界の友人へ贈る


 吹き渡る風の音に耳を傾けよ。権力に抗し復帰をなし遂げた大衆の乾杯の声だ。打ち寄せる波濤の響きを聞け。戦争を拒み平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ。

 “鉄の暴風”やみ、平和のおとずれを信じた沖縄県民は、米軍占領に引き続き1952年4月28日サンフランシスコ平和条約第三条により、屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた。米国の支配は傲慢で県民の自由と人権を蹂躙した。祖国日本は海の彼方に遠く、沖縄県民の声は空しく消えた。われわれの闘いは蟷螂の斧に擬された。

 しかし独立と平和を闘う世界の人々との連帯であることを信じ、全国民に呼びかけ、全世界の人々に訴えた。

 見よ、平和にたたずまう宜名真の里から、二七度線を断つ小舟は船出し、舷々相寄り勝利を誓う大海上大会に発展したのだ。今踏まえている土こそ、辺土区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地なのだ。1972年5月15日、沖縄の祖国復帰は実現した。しかし県民の平和への願いは叶えられず、日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された。

 しかるが故にこの碑は、喜びを表明するためにあるのでもなく、ましてや勝利を記念するためにあるのでもない。

 闘いをふり返り、大衆が信じ合い、自らの力を確め合い、決意を新たにし合うためにこそあり、人類が永遠に生存し、生きとし生けるものが自然の攝理の下に生きながらえ得るために警鐘を鳴らさんとしてある。




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沖縄 -ヤンバルの北・辺戸岬-_b0029488_22514638.gif『西蔵坊だより』は、 森鏡山 正蓮寺の住職の日記です。
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by e.wash-r | 2005-02-27 23:59 | そらごと、たはごと | Comments(0)
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