こどもたちが義務教育を受けていたころ、小中学校の評定が相対評価から絶対評価に変わりました
当時ボクが抱いていた絶対評価への不信感は、今も変わっていません。
「正当な評価」などあり得ないという前提にしろ、できるだけ主観を入れないという点において、自然界の正規分布の原則に則した相対評価には、それなりに合理性があったと思っています。
いわゆる「偏差値教育」への批判は、相対評価で示された分布上の位置を、主観的な価値観で眺めたことから生じたものであったとボクは思っています。問題にすべきは、相対的な分布の位置をあきらかにすること(相対評価)ではなく、その示された位置に、主観的な価値を付加する思考判断だと思うのです。
本来相対評価で示される位置は、それ以上でもそれ以下でもなく、優劣や善し悪し、まして価値や人間性を示すものではないのです。
絶対評価については、実は理解できていないのですが、どうも成熟度・達成度・到達度が関わっているようです。
そもそも定量的に示すことが難しい指標を、主観に頼らざるをえない判断で評価するという感じがボクの絶対評価の理解です。
やる気や努力、行為、あるいは美しさは、感性で褒めたり讃えたりするものであり、評価するものではないと思うのです。
『なごり雪』の歌詞。
「僕」は、別れゆく「君」を以下のように歌います。
今 春が来て 君は きれいになった
別れの季節の感傷、「僕」のなかで「君」はさらにきれいになったのだと。
ときを経て「僕」にはかけがえのないきれいな「君」がいるいうこと。
絶対です。
『なごり雪』をモチーフにしたジョーク。
サルを引き合いに「君」を語ります。
今 サルが来て 君はきれいになった
「君」がきれいかどうかはわからない、しかし、サルを前に「君」はきれいなのだと。
言っているのは”サルよりきれい”ということだけ。「君」への感情も、美しさへの感性もありません。
相対です。
ただ現実的には、女性はやっぱり「サルよりきれい」と言われるより「春が来てきれいになった」と言われた方がうれしいだろうなあ、と思うわけで。
絶対評価も使いようではあるわけで。
サルにはサルの美しさがあるわけで。
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