佐世保、浦頭引揚記念資料館を訪ねました。
平和公園より佐世保湾浦頭の港を望む 佐世保は軍港でもありました
『引揚第一歩の地』 引揚船1216隻 引揚者およそ140万人
引揚援護局検疫所 今はハウステンボス
検疫所の様子 DDTの散布は母の強烈な記憶
引揚船の主力・米軍のL.S.T(戦車揚陸艦) 記録から推察するに母もL.S.Tで帰国
*モノクロ写真は浦頭引揚記念資料館のもの
戦後の邦人の引揚・復員の方々の数は、民間人・軍人軍属あわせて600万人以上。そのうち、およそ164万人の方々が、佐世保浦頭へ引揚げてみえるそうです。
母は、昭和20年の終戦まで、父親の任地であった中国河南省に家族6人で暮らしていました。佐世保は、母の家族が、終戦の日の3日後から9ヶ月以上をかけて帰ってきた港です。
今回の旅の目的、mission2は、母の引揚の地である佐世保を訪ねること。母のかすかな記憶を頼りに、引揚の地を巡りました。
① 佐世保湾浦頭埠頭 引揚船が入港したところ 『引揚第一歩の地』の碑
母に「埠頭の記憶はない」 船上から「陸が見えたときには歓声が上がった」という
② 浦頭引揚記念資料館 港の上の平和公園内にある 引揚資料の展示
引揚船の記録がある 引揚者の名簿は米軍管理で日本にはない
③ 引揚援護局検疫所 浦頭から約7km 検疫とDDT散布を受ける
母はここで数日滞在したらしい DDTの記憶
跡地はハウステンボスに 引揚船中、検疫所で亡くなられた方の墓地がある
④ 国立川棚病院 (旧川棚海軍共済病院 現長崎川棚医療センター)
引揚者の多くが治療療養した病院
母の家族は(数日)入院療養し転院したらしい
「カワタナビョウイン」という母の記憶より
⑤ 嬉野海軍病院(現嬉野医療センター)
母の家族は川棚病院から嬉野海軍病院へ移り(一ヶ月ほど)療養
(山の上の病院、坂を下りて嬉野の温泉に通ったという記憶から推定)
さつき、つつじの季節 共同自炊生活だったらしい
曖昧な部分、推察もありますが、戦争の記憶として残しておきます。
Tumblr 『西蔵防だよん』
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