台所で坊守がギャーギャー騒いでいる。
自分で仕掛けたネズミ捕りにネズミが掛かったものの、粘着してもがくネズミに戸惑っている模様。
要するに、ボクにネズミを処分しろ、と。坊守が将軍さまに変わる瞬間である。
ガソリンで洗って、ネバネバから解放してあげるほどの優しさは持ち合わせていない。好むと好まざるとにかかわらず、「殺す」という選択があるのみ。そもそも、そのための捕獲だ。
苦しまずに死なせてやることが、唯一できること。放置しても、焼いても、水に浸けても、たぶん苦しむ。一瞬で殺すしかない。
仕掛けのまま梱包し、しっかりと頭の位置を確認し、思いっきり掛矢で潰した。必ず絶命していてくれという沈痛な思い。いい気持ちはしない。その後、焼却炉で燃やした。
殺す側の論理である。殺される側には不条理でしかない。
「いのちの尊さ」を朗々と話す人たちを好きになれない。そういう人たちに、よく引用される聖句。
すべての者は暴力におびえ、
すべての者は死をおそれる。
己が身をひきくらべて、
殺してはならぬ、
殺さしめてはならぬ。
『法句経』のことばである。ブッダのことばである。真理である。
そうありたい。が、娑婆というところは、そうはいかないのだ。
「イルカの死」のことを知った。
イルカは哺乳類である。肺呼吸だ。水中では呼吸ができない。
死を迎えるとき、力尽きたイルカは海に沈んでいく。水面にとどまることができない。溺れながら死んでゆくというのだ。壮絶な死だと言われる。死は安らかにはやってこないというのだ。
すべての者は暴力におびえ、
すべての者は死をおそれる。
生への執着は、そういうことなのだと思う。語ることができるのは、己が身・己が生への執着・分別なのだ。
己が身をひきくらべて、
殺してはならぬ、
殺さしめてはならぬ。
『法句経』の解釈とは異なるかもしれないが、これは、どこまでもブッダのことば。故に真理なのだ。
執着・分別し、殺し、殺さしめる者は己に他ならない。
蓋し、ボクたちは、あらゆるいのちの臨界を生きている。
暴力におびえる者、死をおそれる者、殺す者、殺さしめる者、すべてに届く声がある。
有り難い。
Tumblr 『西蔵防だよん』 【 2014年の今日のblog 】【 2013年の今日のblog 】【 2012年の今日のblog 】【 2011年の今日のblog 】【 2010年の今日のblog 】【 2009年の今日のblog 】【 2008年の今日のblog 】【 2007年の今日のblog 】【 2006年の今日のblog 】【 2005年の今日のblog 】【 2004年の今日のblog 】【 2003年の今日のblog 】