舎利弗の目
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棟方志功「二菩薩釈迦十大弟子版画柵」1939 より


夜、Hさんが来寺。のんびり話し込んでいると、遅れてダンナさんのMくんが来寺。ますます、のんびり話し込みました。

帰り際、Mくんが、「ここ数年、ずっと気になっていること、聞いてもいいですか?昔、修行者が、目をくり抜いて差し出した話をご院さんから聞いた記憶があるのですが、その続きって、どうな風でした?」

「舎利弗が目をくり抜いて差し出した話」を知り、10年くらい前、ボクは、その話を、ときどきお取り次ぎに引用していました。たぶん、Mくんは10年くらい前、ボクのそのお取り次ぎを聞いたのだと思います。そして、ずーっとモヤモヤしていたのでしょう。


修行中の舎利弗に、盲の男が「あなたの目をください。」と請う。
舎利弗は、すぐさま、自分の目をくり抜き、その男に与える。
目を受け取った男は、においをかぎ、捨て、足で踏み潰す。


おおよそ、このような流れの話です。ボクが聞いその話の結びは、『舎利弗は、ほんの一瞬、その顛末に唖然とする。このとき、修行者舎利弗は、ただの泥凡夫となった。』というものでした。ボクがMくんにした話も、そのままだったと思います。

Mくんは、「なぜ、男は、目を踏み潰したんでしょうか?」と尋ねてきました。

ボクには、わかりません。ただ、この話の本質は、目を踏み潰した理由にあるのではないと思っています。舎利弗の献身も本質ではないと思います。

この話の本質は、舎利弗が、もはや、男のものとなったかつての我が目、与えた目の有り様に動揺し、こだわったことです。

舎利弗の思いは、実は、人間ならば当たり前のこと。まさに人間の情、思慮の範疇ということ。翻って、それは人間の話であり、ほとけさまの話ではない、ということ。

清淨なるもの、ほとけさま、おさとりは、人間の延長にはないことを示した説話なのだと、ボクは受け止めています。

人の行為の尊さとおさとりを混同しがちなボクたちへの警句と受け止めたいと思います。

人のすばらしさは、人のすばらしさとしておおいに讃えればいいじゃないか、と思う、ということでもあります。


ところで・・・

大原美術館のポストカードになっている棟方志功の舎利弗を挿画としました。50代のおっさんには、スペシウム光線を放つウルトラマンに見えるんですよねえ。




                    
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by e.wash-r | 2016-07-30 23:47 | 智慧と慈悲 | Comments(0)
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