美濃四十八座 黄鐘会冬座 成照星師
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成先生をお迎えして、美濃四十八座・第23回正蓮寺真宗講座・黄鐘会冬座をつとめました。

「たて分け」ということばに代表される先生のお話のスタイルのままに、終始一貫して、丁寧な他力のご法義をお取り次ぎいただきました。

ボクたちが分別智しか持ち合わせない以上、法話とは言え、何に執着し、何が語られるのかという大前提、言ってみれば、少なくともなんとか共有できるモノサシが必要です。

先生の話は、いつもそこからはじまります。仏教におけることばの定義、その共通理解があって、はじめて、ともに分別智の中の、ほぼ同じ仏教の論理が展開されるわけで、普段、生活のなかで使うことばであればあるほど、丁寧に用いられお話しをされる先生の思いを、真摯に受け止めたつもりです。


受け取るお慈悲はそのまま。どう受け取るかはボク次第。

受け取ったボクが規定される普遍的な因果関係の科学とは趣の違う、迷いのままの私のうえに成立する因果の道理、有り難く聞かせていただきました。

お座のあと、先生は「ちょっと難しいたとえだったかな、ほかの言い方のほうがよかったかもしれない・・・」とおっしゃいました。難しかったです。でも、お同行は身を乗り出して聞いていらっしゃいました。

先生にもお同行にも失礼な言い方になりますが、ボクたちは、わからないときも、間違いのないお慈悲が語られている、そう思って聞き入っていました。わからないときも、本堂で今、仏法が説かれている、そう思って同座していました。

おみのりが取り次がれるということ。ボクは、間違いなく、それがお座の姿だと思っています。生意気に言えば、お寺の存在する意味だと思っています。

そういう意味で、当たり前のことととは言え、ボクは住職として、お座をたてることができたと実感していました。むちゃくちゃうれしい気持ちでいました。


世間のことを知らされて、世間の生き方を身につけることができたとしても、それをお座とはいいません。(ボクはそう思っています。)

”ご講師をお招きした住職がひとりよろこべば、それでお座は成り立つ”という美濃四十八座のコンセプトのひとつ。おみのりが説かれ、おみのりを聞く。それだけ。

夜座が終わったとき、ここにお寺があってよかった、と思いました。




                    
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by e.wash-r | 2016-11-17 23:52 | お聴聞 | Comments(2)
Commented by みちのく念仏 at 2016-12-02 22:25 x
初めまして、正蓮寺さま。

成先生のお取り次ぎ先を探しておりましたら
こちらに辿りつきました。

美濃では素晴らしい法座があるのですね
以前、曽我屋のお寺さまが会所の際に
たまたま京都におり、法話検索サイトにて
美濃四十八座を知り、お聴聞させて頂く事が
できました。
今回は成先生と言う事で我がみちのくから一泊しても
行こうかなと本気で考えたくらいです。
さすがに費用と時間がかかりますし、仕事上差しさわりが
あるので断念しましたが。
東日本ではなかなか、成先生のご縁にはあえません。
毎回、四十八座では素晴らしい布教使の先生方を
数多くお招きになられていて、美濃のお同行方の
なんと幸せなことかとうらやましく感じます。
こちらみちのくから遠いのが残念でなりません。

素晴らしい美濃四十八座が末永く続きますこと、
ご本願とお念仏に遇えた事をよろこぶ方が一人
また一人と続きますように心からお念じ申し上げます。

また、美濃の四十八座に伺いたいです。
Commented by みちのく念仏 at 2016-12-02 22:48 x
追記いたします。
大事な事を書き忘れておりました。

”ご講師をお招きした住職がひとりよろこべば、それでお座は成り立つ”

この言葉に心が揺り動かされました。

私が仕えさせて頂いているお寺でも
将来、場所を新たにして法座を再開しようか
(ある特殊な事情で中断したままでして)
悩んでおりました。
法座の必要性その意義は感じるのですが
再開しても来る人など3~4人いるかどうか
いない日もあるだろうし、そんな時は
布教使様を落胆させるかもしれないと
誰も来ないような法座は再開するべきか
その事に意味はあるのか?と
悩んでおりました。

しかし、
”ご講師をお招きした住職がひとりよろこべば、それでお座は成り立つ”

この言葉通りですね。
私がいれば、私が聞くならそれでよい訳です。

今日、ご縁のあった布教使の先生が
「親鸞一人がため」と度々お話し下さいました。
「親鸞一人がため」は「私一人がため」です。
言い換えればお集まりの皆さん一人一人
「あなた一人がため」ですよと
お取次ぎ下さいました。
まさに「わたし一人がため」の果てしないご苦労
とそのお救いだと。

~このたびのこのご縁は、我一人のためと思うべし~
の聴聞の心得の通りですね。
更に
~このたびのこのご縁は、今生最後と思うべし~
の思いでお聞かせ頂くばかりです。

”ご講師をお招きした住職ただひとりだとしても
その一人のための、お救いであった
その為のお座であった”

親様の思いとご苦労はひとえに私の為でありましたか。
勿体ない事ですね 有難い事ですね
お念仏申さずにはおれません

なんまんだぶつ なんまんだぶつ
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