お寺の未来

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過日、知人のAさんから、素朴な質問を受けました。

ひとことで言うと「儀礼の意味は? 」ということ。

実際の質問は多岐にわたり、ご自身の具体的な経験から生じた疑問。質問をされるお気持ち,
十分察することができました。

Aさんは曹洞宗の檀家さんでいらっしゃいますが、浄土真宗では・・・ということをお伝えしました。迎えてくださるほとけさまがいらっしゃるということをよろこんでおられる方なので、そのまま聞いてくださったことと思います。


できる限り丁寧にお伝えしたつもりです。仏徳讃嘆と報恩謝徳という原則のみで、具体的なことに触れることができなかったのは、ボクの力量不足。ただ、宗門として、おそらく儀礼論というものが確立していないということにも一因はあると思っています。(確立できるものか、していいものか、わかりませんが)



少し気になることがあり、調べものをしました。調べれば調べるほど、疑問が増大。悶々としながら、長男に電話して質問。

上述の儀礼論について、寺檀制度と寺院の伝統・地域の土徳ということについて。

明快に答えてくれました。ただ、答えというか現状。正直、ちょっと不安になるボクたちの現状です。

長男から「父ちゃんのようには、みんな考えていないよ。そう考える雰囲気もない。」と言われてしまいました。時流に合っていない、そうです。長男は悲観していました。

少なくとも、ボクは、回りの人たちと話ができるので、そんなことはないだろうと思うのですが・・・。



また、愚痴です。





                    

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by e.wash-r | 2017-09-14 23:28 | 愚考 | Comments(4)
Commented by namo at 2017-09-15 14:47 x
趣旨とは 異なるかもしれませんが、若い人には このように話しています、
念仏の人は お浄土に生まれ、仏となって いま、私に、はたらいでおられる。

葬儀の時に 「本願力にあひぬれば むなしくすぐる人ぞなし・・」
父や母 祖父母が、仏になって最初の仕事として、どうかわが子や孫たちに、
空しくない人生を送ってほしい。
どうか、世間の価値観を超えた 念仏の価値観に出会ってほしいと
よびかけ、頼んでおられる、そのことを再確認して、聞かせていただくのが、
こうした法要、儀式である。
お勤めは、(正信偈)は、その教えの内容が説かれております。

死んだら終わり、歳をとったり病気したらだめという
現代の価値観ではない、老病死受け入れる、お念仏の価値観が
あることに気づき、受け取ってほしいと。

世間の価値観だけで生きていれば、辛い苦しい空しい人生で終わり
南無阿弥陀仏の価値観に遇えば 人生はまるで違って見えてくる。
未来が開けてくるものですと・・・・
Commented by e.wash-r at 2017-09-15 23:09
ありがとうございます。

Aさんもnamoさまのコメント見ていてくださることと思います。

疑問があって、そのことをご院さんに訪ねてくださるというご縁、ありがたいですよね。

今が臨終、お聴聞つづけてください、とお伝えしました。


namoさま
Commented by gizing at 2017-09-16 14:38 x
救われたよろこびが前提にあり、その表現として儀礼が
生まれるとすれば、そもそも「救済とは何であるか」が
今一度明確にされなくてはならないと拝察します。

それは、処世上のことどもが上首尾に運ぶ、ということ
とは次元を異にした領域の問題でありましょう。

よほど根源的な問題が落着をみるのでなければ、たいて
い当座のうれしさ程度で過ぎ去って行きますから。

何が解決されているのか、ひるがえって、何が解決され
なければならないのか…現代にあって僕らがこの辺りの
消息に思い至るのは至難のことなんでしょうね。

残念ながら、伝統的な語り方の有効性が急速に失われて
いることは否定できません。

今ここに存在しているということは、実に驚くべき不可
思議な事態です。しかし、あまりに自明なことゆえ、日
常にあっては看過されています。

それが、ただごとではないこと、そこに降り立って初め
て根源的な問題に直面すること、そのことをあらためて
喚起する言葉が求められているように思います。

綿々と受け継がれてきた教義用語が真価を発揮するのは
そこからであり、儀礼もまた然りと考える次第です。




Commented by e.wash-r at 2017-09-17 00:08
坊主の、現場対応の意見なのかもしれませんが、我が救いの実感とは別に、先にほとけさまになられた方への情感というものに、ついつい先に対応してしまうような気がします。

故人がほとけさまになられたとうけとめ、ほとけさまと引き受けてくださった阿弥陀さまを思うということ。

それは我がことであり、臨終であり、今そこを生きているということ。

伝えぶりとしては、ちょっとずるいのかもしれませんが、あの手この手です。

ついつい流されそうなボクたちへの、本質のご意見に感謝です。

我がよろこびで語りたいですね。


gizingさま

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