ものごとは多面的であり、どうにでも理屈をつけられるようなことも多く、そういう意味では、個人の主観的なものの言い様というのは、むしろ、誤解がなくていいようにも思います。
そこで、当方の、極めて主観的な意見。あるいは、ボクの好みの主張。
当地のお年寄りは、"ついでまいりはあかん。"と言われますが、久しぶりに岐阜の町にでてきたので、岐阜別院におまいりしました。いわゆる"ついでまいり"ですが、ボクはあんまり気にしません。
さて、岐阜別院の本堂を見て思ったこと。
本堂そのものを、掲示伝道の場にするのは、『ボクの個人的な好み』ではないし、『ボクの宗教的情緒みたいなもの』とはすこしちがいます。
本堂そのもの、あるいは、境内そのものが醸し出す荘厳というのが、『ボクは好き』です。
"自坊はどうか?"と眺めてみれば、"申し訳ないことです。"としか言えないていたらくですが、
別院の発想とは、すこし違うと思います。
これは、大前提として、好みの問題です。
でも、自坊の本堂を、別院のように「ことば」と「文字」で飾りたいかと問われれば、"???"というひとが多いのでは・・・。
たわごとです。お聞き(読み)流しください。
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『西蔵坊だより』は、 森鏡山 正蓮寺の住職の日記です。
仏教のこと、山や川や海のこと、TIBETのこと等、思いつくまま書いています。
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