ある研修会に出席し、法務省企画の『二つの道』という映画を観てきました。
簡単に、すこし乱暴にいえば、非行少年が、彼を見守り支える周囲の人たちのあたたかい眼差しによって、更正の道を歩むと言う内容です。
解説によれば、『この物語の本当の主人公は、彼を取り巻く周囲の人々であり、そしてこの物語を見ている皆さん一人一人なのです。』とあります。
言いたいことはわかります。でも、人間のあたたかい眼差しで、本当に人は変るんだろうか?と、ボクは思うのです。確かに、あたたかい眼差しは必要かもしれませんが、詰まるところ、本人の意識改革がなければ、なんともならないことです。意識改革においては、あたたかさや優しさだけでなく、厳しさや冷たさ、無関心すら、同等に重要な要素なのです。
そもそも、人間のあたたかさや優しさほど、危ういものはないとボクは思っています。人間のあたたかさや優しさは、多くの場合、極めて利己的と考えていいんじゃないでしょうか。
だから、重要なのは、欺瞞であっても、むしろ役割分担としての徹底したあたたかい眼差しや、厳しさだと思うのです。もちろん、普遍的にそうあることができるならば、それにこしたことはないと思いますが・・・。
例えば、この映画において、更正をめざす少年へのあたたかさはあっても、彼を取り巻く不良グループに対するあたたかさは、ほんのわずかもありません。むしろ、単なる社会悪として描かれるのみです。映画のストーリー上の問題ではなく、それがリアリティを持っていることに、ボクたちの実は偏狭な眼差しを、見せつけられたような気がします。
甘ったるいほどの優しさから、全くの無関心まで、すべて混在するのが人間の世界であり、そこでボクたちは、都合よくそれらを選び、責任を転嫁して、生きているのかもしれません。
さて、『二つの道』のどちらかを選び、その選んだ道を行くという歩みは、まさに、人の歩み。
信仰の歩みは、たしかなほとけさまの慈悲をよろこぶという歩みです。
貪りと怒りに覆われてはいても、たしかな慈悲の『白い道』が足下に広がっていると、安心して歩む、そういう歩みがあるのです。