「宗教や念仏だけでは解決しません」
10月に住職継職をされるA師を訪ねて、K寺さんへ。

親鸞聖人の750回大遠忌法要と住職継職法要に向けて準備の進む本堂、新しくなったばかりでいい匂いのする畳の上で、A師と坊守さん、一緒に訪ねたS師とボクの4人で歓談。

そこへ、"K寺のご院さんは、よく勉強してらっしゃる方だと聞いて来ました・・・"というふたりのご婦人が訪ねていらっしゃいました。

A師が、"ちょうど他のご院さんもいらっしゃるので、本堂へどうぞ"とご案内されたので、ボクたちも本堂で、そのおふたりのお話しを聞くことになりました。

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おふたりは、早速チラシを出されました。そのチラシには、まず、『宗教のすすめでは有りません』とあり、「神の怒り」と現代社会の惨状や問題点がいくつも列挙されています。そして、『解決は金力や科学や宗教だけでは無理です。当会の方法で解決してください。宗教や念仏だけでは解決しません。』と結ばれています。

釈尊が文字を残されなかったこと、結集(けつじゅう:釈尊入滅後、仏説を集成し編集したこと)、分派したこと等をあげ、釈尊の教説は正しく伝わっていないというようなことを、最初に話されました。世間が乱れていると嘆かれました。

ボクたちは、釈尊の教えの根本、例えば縁起法に照らして、経典をいただきます。言葉尻だけを理解するということではなく、釈尊の教えをいただくのです。また、わたしたちは、"わたし"のこととして、仏説、仏教を聞きます。"わたし"を離れて仏法はないし、社会や世の中の有様を俯瞰してものを言うのが仏教ではないんですよ、とお伝えしました。

『神の啓示を受けたある方』の何かをすすめられるおふたりとの話は、うまくかみ合わないところも有りました。しかし、K寺さんへ向かう車中で、阿部先生の「科学と仏教」についての講義のmp3を聞いたばかりだったので、ボクたちとしてはとてもスッキリした心持ちで、お話しをすることができたと思います。

おふたりは、例えば生き方として「禁酒・禁煙」をすすめられました。
"お酒もタバコも大好きだというS師""お酒なしでは生きられないA師""飲みたくてもお酒の飲めないボク"のそれぞれが、同じく仏法をよろこんでいるすがたを、どう眺めていらっしゃったんだろう。

臨終のお知らせを受けたので、ボクとS師は話の途中でしたがご無礼しました。A師はその後もゆっくりとお話しをされたようです。

帰りの車中、S師と、
「おふたりは最初、A師のご門徒さんのところへ訪ねて行かれたんでしょうね。そこで、ご門徒さんが、"ウチのご院さんはよく勉強していらっしゃるから・・・"とおふたりにお寺へ行くことを勧められたということなんでしょうね。ありがたいご門徒さんですね。ご院さんのお人柄、そしてご教化ですね。」
とK寺さんというお寺のすがたに感心したことです。

8/2の阿部先生の講義
いっしょに行ったS師の日記


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 よ う こ そ 『 西 蔵 坊 だ よ り 』 へ

b0029488_22514638.gif『西蔵坊だより』は、 森鏡山 正蓮寺の住職の日記です。
仏教のこと、山や川や海のこと、TIBETのこと等、思いつくまま書いています。
よろしければ、TopPageより、ゆっくりご覧ください。

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by e.wash-r | 2008-09-17 12:35 | 智慧と慈悲 | Comments(2)
Commented by GIZING at 2008-09-18 18:56 x
かのカルト教団による惨劇は、その後のこの国に何を残したんでしょう。

自慢げに「無宗教」を標榜する御仁にはあまたお目にかかりますが、そ
の内実は、実に幼く、脆弱なものに思えてなりません。

実にあっけなく、怪しげな狂信に陥るケースが後を絶ちません。

カルト教団を受け入れる資質は、以前と少しも変わってないんじゃないかと拝察します。

宗教には自分の抱える闇と徹底して向き合うという厳しさがあるように考えます。

耳に心地よい処世訓めいた言葉にうっとりしているような処に安住することを良しとはしません。

自分の幸福の首尾を都合よく塩梅してくれるものとの「取引」。

この国では宗教はいまだこの位の認識で済まされているみたいです。

宗教を軽く見てると、自身の存在そのものの根幹が危うくなるように思います。

徹底して自分の問題でありながら、同時に世界的な広がりを持つ問題だと確信しております。

実は私どもは本当に絶望を味わっていないのかも知れませんね。

Commented by e.wash-r at 2008-09-19 23:54
解決できない問題があるということは、そこにあらゆる解決方法が生まれる可能性があるということだという話を聞きました。

例えば誰もが本質的に抱える老病死の問題には、非合理的なものが入り込む理由も余地も十分にあるということです。

コワイですね。


〈宗教には自分の抱える闇と徹底して向き合うという厳しさがあるように考えます。〉とのご意見ですが、ボクは、もっと楽観的に考えています。うまく言えないですが、底知れぬ闇と真摯に付き合うのは、果てしなくしんどいことだということを、本能で忌避しているのかも知れません。

逃げも一手であると、ある意味合理化してバランスを取っているのだと思います。情けないのに、生きていけるということが、大切なのではないかと。

でも、〈本当に絶望を味わっ〉たとき、そんな風に思えるかどうかはわかりません。きっと理性も感性も投げ捨ててもがくんでしょうね。



妙念寺BBSのGIZINGさんの鋭い記事も有りがたく読んでおります。

GIZINGさま

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