2006年 06月 30日 ( 1 )
『いとしのヒナゴン』  -ふるさとの話をしよう-
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夜の予定が変更になったので、義弟のお見舞いに行くことに。
それまでの空いた時間で、『いとしのヒナゴン』(重松清)を一気に読みました。

"ヒナゴン"のコトを書くのは、これで4回目のように思います。なんか、"ふるさと"ということばが気になるんです。 過去の"ヒナゴン" → 123

映画『ヒナゴン』もオススメしましたが、小説『いとしのヒナゴン』もオススメします。
とっても!

以前、ボクは、唱歌『ふるさと』にヨワイと書きました。

うさぎ追いし かの山 こぶな釣りし かの川
夢はいつもめぐりて 忘れがたき ふるさと

いかにいます 父母 つつがなしや 友がき
雨に風につけても 思いいずる ふるさと

志を果たして いつの日にか 帰らん
山は青きふるさと 水は清き ふるさと

"ヒナゴン」は"ふるさと"にいるんです。
2003年の9月配信の『ふるさとの山』というテレホン法話です。
『ふるさとの山』

 大半が物見遊山ではありましたが、一応、お念仏ゆかりの地を訪ねるという名目で、東北を巡ってきました。にわか仕込みではありますが、東北にまつわる詩をいくつかご紹介いたします。

 『夏草や兵どもが夢の跡』

 この句は、今から300年以上前、俳人松尾芭蕉がみちのくの旅の途上、藤原氏の栄華の地・平泉で詠んだものです。芭蕉は、北上川の悠久の流れを望みつつ、

 「国が破れ滅びても、山や河だけはむかしのままの姿で残っている。荒廃した城とて春はめぐり来るが、草木だけが生い茂るばかりだ」

と詠んだ杜甫の詩、

 『国破れて山河あり 城春にして草青みたり・・・』

を思い浮かべ、栄華盛衰の移ろいに涙したと綴っています。
 これらの詩が、時を経てさらに私たちの心に響くのは、杜甫や芭蕉がしみじみと感じ取っていた巡る歴史の無常、時の流れのはかなさを、今、私たち自身も我が身の上に同じく感じることができるからでしょう。
 ところで、杜甫や芭蕉は、ただ淡々とたたづむ山河・草木についてはどのような思いで見ていたのでしょうか。たとえば、岩手・渋谷村で一時期を過ごした詩人石川啄木は、ふるさとの山を仰ぎ、

 『ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな』

と、詠んでいます。
 ふるさとの山河は、その懐に喜びも悲しみもすべてを包みこんで、常に私のそばにたたずんでいます。それは、移ろう時や歴史に翻弄される私を、その苦悩が故に、そのままただ救うと誓われる阿弥陀仏のお慈悲そのもののようであります。

 『ふるさとの山に向ひて/言ふことなし/ふるさとの山はありがたきかな』

"ふるさと"は、田舎だけではありません。例えば、『センチメンタル通り』。

いつかこの街すてる時 君は涙みせずに 行けるかい


"ふるさと"は、かつてすんでいた場所でもいいし、今すんでいる場所でもいいと思います。そう言う場所のことを、何もかもひっくるめて考えさせられた『いとしのヒナゴン』でした。

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by e.wash-r | 2006-06-30 01:24 | 溺レル | Comments(0)