2010年 06月 03日 ( 1 )
怒り心頭  -布教使さんは名札を付けた方がいいと思う-
b0029488_246430.gif


布教師資格はないが、ボクは岐阜教区の布教団員のひとりということになっている。

布教団から分厚い『報告書』が届いた。「2004年の第2連区研修会の内容に関する研究会」の研究成果らしい。

2004年の件については、事前からかなり深く関わった身として、言いたいことは山ほどあるが、どこまで行っても平行線だと思うので関わらないようにしてきた。

『報告書』も読まない方がよかったのかも知れない。なんとなく軽い気持ちで読んでみた。先日の『お聴聞のつどい』のお話しと同じようなことが書いてある。

読まなければ良かった。でも読んだ以上、ひとことふたことみこと書く。


まず、ほとけさまの話でないのなら、一人称で語り得るかどうかの検証をすべきである。
たとえば、ボクのblogみたいに「ボクは・・・」と書いてみろ!
問題点を「教団は・・・」なんて自分を曖昧にした書き方するな!
主体を明確にすることは、最低限の責任であり、礼儀だ。

次ぎに、運動というなら運動らしく運動すべきである。
"観念の遊戯に陥ることなく"からだ動かして、汗かいてみろ!
元気の出る運動会のプログラムつくるか、楽しかった運動会の作文かいてみろ!
私の運動、実践なんでしょ。

そして、なにより一生懸命読んでもわからないことが多すぎる。
お聖教の個人的解釈を一般化するな!
自分の稚拙な考えを以てそれを真宗だとか信心だとか言うな!
丁寧で真摯な姿勢は、お聖教と向き合う基本だ。


研究報告を稚拙といってはご無礼かも知れないが、例えば『報告書』P4L19行。

「信心とは、私が阿弥陀如来の本願によって浄土に往生することのみをよろこぶということではなく、縁起の世界に生かされていることに目覚めていくことです。私たちは、他者、社会と関わりなく、自分ひとりで生きていける存在ではありません。そのことに気付かせてくれるのが浄土真宗の教えであり、社会性を抜きにした信心はありえません。・・・」

「縁起の世界に生きていること」「他者、社会と関わりなく、自分ひとり生きていける存在ではないこと」は、誰だって知っています。中学生の娘にに聞いたら「そんなの当たり前やん。」と。それは唯の事実であり現実に過ぎません。「そのことを気付かせてくれるのが浄土真宗」などという理解はあまりにお粗末。



怒り心頭で書いてしまいました。しかもあなたを糺そうという上から目線で。みっともないこととわかっていていますが、書かずにはいられないほどさみいい気分なのです。


気分悪くなった人がもしいたらゴメンナサイ。
責められるのイヤなので、この件についての総会・研修会は欠席します。逃げます。

まさか、信心の社会性だからと「ニクルヲオワエトル(逃ぐるを追はへとる)」 なんてことしないでしょうねえ。

あなたがたからは逃げたいボクです。




                    【 1年前の今日のblog
                    【 2年前の今日のblog
                    【 3年前の今日のblog
                    【 4年前の今日のblog
                    【 5年前の今日のblog
by e.wash-r | 2010-06-03 23:54 | そらごと、たはごと | Comments(6)