2012年 04月 08日 ( 1 )
「『ブラインドサイト』を観て」追記 -「好き」ということについて-
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5年前のblog「『ブラインドサイト』を観て」を読み返してみて、ボクが言いたかったことは、「好き」ということについてだったのだろうと思います。

「議論は、理解より、むしろ溝を深めることの方が多い。」と言いますが、blogという公開性のあるメディアで、自らの意見を述べた手前、少なくとも誤解は解いておきたいと思いますし、できれば、稚拙な文章でお伝えできなかった真意について、もう少し深く述べてみたいと思い、追記いたします。


「好き」ということを説明するのは、たいへん難しいです。いくら考えても、うまく表現できません。なんとか表現したとしても、何か足りないのです。しっくりこないのです。
ただ、好きとしか言いようのないのが「好き」ということなのだと思います。

仏教は、因果の道理を説きます。その原理からすれば、果としての「好き」には必ず因としての理由があるはずです。でも、あるのだろうけど、わからないのです。

「好き」とは、たぶん、心の奥底から湧き上がる煩悩の衝動のようなものなのでしょう。ところが、「心の奥底」がいったい何なのか、「煩悩の衝動」がどうして湧き上がってくるのかということになると、さっぱりわからないわけです。論理の範疇に収まらない「好き」を、人間の理性で説明することは、そもそも無理なことなのだろうと思うのです。

ただ、「好き」にともなう心の機微を体験的に表現することはいくらか可能です。「好きなモノ」「好きなヒト」「好きなコト」等を通して、ボク(たち)は、理屈では説明できない「心地よさ」や「歓喜」を享受しているからです。そのうれしさを、ボク(たち)は、むしろ無意識に、そしておぼつかなく、独自に体現しているといっていいと思います。

視点は変わりますが、もう少し加えると、「好き」には、結果的に「権威や名声」「驕慢心や自尊心」「嫉妬や独占」「苦脳や不安」というような、本来「好き」とは似つかわしくないようなモノが付随することがよくあります。煩悩が故の「好き」の、ある意味本質なのかも知れません。


さて、ボクは山が「好き」です。チベットが「好き」です。だから、この映画を観ました。

では、映画「ブラインド・サイト」の中の人たちは何が好きだったのでしょう。

登山家エリック:たぶん、山が「好き」だと思います。
登山スタッフ:たぶん、山が「好き」だと思います。
教育者サブリエ:山が「好き」かどうかわかりませんでした。
盲目のこどもたち:山が「好き」かどうかわかりませんでした。

ボクは、単純にこういう視点で、この映画を観、感想を書いたのだと思います。

あくまで想像で、ボクが感じたことでしかありませんが、サブリエは、山が「好き」だから、こどもたちを山に連れて行ったのではないんだろうな、と思ったのです。『山が「好き」』を伝えようとしたエリック達とは、もともと共有する「好き」がなかったのかも知れないと思ったのです。

乱暴な言い方になりますが、教育というのは「好き」を伝えることだと思っています。山が「好き」、サッカーが「好き」、歌が「好き」、算数が「好き」。先生は、自分の「好き」を伝えてくださる方だと、ボクは思っています。実際、ぼくの「好き」な先生方は、みんな先生の「好き」をうれしそうに教えてくださいました。

そういう意味では、サブリエは教育者として、友情や努力や達成感が「好き」なのかなあと、なんとなく感じています。誰かの「好き」をとやかく言うことは、義に反しますが、ボクは、こういうタイプの人が苦手だから、理解できなかったのかも知れません。

ただ「好き」の対象の違いについては、はっきりしておきたいと思います。

例えば、山の好きな人は、山そのものとわたしの「好き」を伝えれば、あとは山の魅力がすべてです。山が教えてくれるのです。しかし、友情や努力や達成感の「好き」な人は、自分の友情と努力と達成感を示さなければなりません。本人が育んだ友情、成し遂げた努力やその達成感にしか実態がないからです。世間は、こういう類いのことが好きみたいですが、ボクは、これほど危ういモノはないと思っています。山やサッカーや歌や算数に真実はあるかも知れませんが、わたしの行いに真実があるとは言い難いからです。

【注】
・友情や努力や達成感の否定ではありません。
・それと、示された課題(例えば、入試や資格試験等)に対して、知識やスキル、テクニックを学ぶこと・教えることは、上記の範疇ではありません。(一致してたらカッコいいけど・・・)


かえって混乱しただけのような気もしてきました。

ボクとしては、サブリエに「友情のための撤退」と言って欲しくなかったということです。
山が「好き」なら、「山には適わなかったけど、なんか楽しかったね。山っていいね。」と言って欲しかったわけです。

そして、もし、サブリエが、山が「好き」でなかったのなら、あえて、山である必要はなかったかも知れない、山が「好き」なエリック達と、ともに目指す楽しさがなかったかも知れない、と思ったわけです。




ご指摘を受けました文章を下記にまとめて転記します。



初めまして。表題の映画をTVで見て、こちらすにたどり着きました。失礼ながら、あまりに誤解があるようなので、あえてコメントさせていただきます。

まず、ご住職さまは登山経験はお有りでしょうか?高山病の怖さをご存知でしょうか?
登山を知り、高山病の怖さを知っていれば、サブリエが子供たちの身をいかに案じていたかが理解できるものと思います。①

また、「エリックと登山スタッフにとって、登山が登山そのものであった」というのも、私から見れば違います。彼らは、「視覚障害者を登頂させることで『何かを誇示しようと』していた」のではないでしょうか。であればこそ、彼らにとって「(子供たちの内)一人でも登頂させられればチームの成功」という考えになるのです。
一方、サブリエの最初の目的は確かに教育的な意味を考えていたでしょうが、それが山登りを「陳腐化」させることなどありません。登山とは「登頂だけが目的」ではないからです。登山を趣味とする者でさえ多くの人が、ここを勘違いしています。そう、エリックたちも、一部の子供たちもです。
「登頂しなければ登山そのものが無意味」になることなど無いのです。そうなってしまうとしたら、当人がそう思い込んでしまったがためです。そういう意味では、子供たちも「登頂至上主義」の犠牲者です。②

サブリエは、映画の中で語っています。「子供たちも言いました。ただ歩いて登るだけでは面白くないと。話をしたり、物語を考える時間もなく、嗅いだり聞いたりする暇もない。つららが落ちる音、それぞれ違う音がするヤクのベル、すばらしいのに。」
そう、この登山は「子供たちにとっても」ただ登頂することだけが目的では無かったのです。
ご住職さまは、「盲目の教育者として撤退を決断し、山を下りたことが、とてもさみしく思えました。」とも語られていますが、彼女の判断は、安全という意味でも、本来の目的という意味でも正しかったと言えます。③

それを、「(高山病で死者が出る)危険を冒しても登頂を目指すべきだった」というのであれば、あなたの住職としての適格を疑わざるを得ません。
例え子供たちがそれを望んだとしても、「登山は生きて帰る事が最も大事」だということを、知っていただきたい。④

そして、正しい知識を持たないがゆえの偏見や思い込みに基づく言動は、容易に人を傷つけるということを、宗教者としてもう少し重く考えていただきたいのです。(仮に、サブリエがあなたのブログの内容を知ったら、どう思うでしょうか?宗教者として、説法で人を導く者の言動として今一度省みて欲しいものです)⑤


ご指摘、ご教示ありがとうございます。全て、何度も読み返し、お気持ちそのまま受けとめさせていただいたつもりです。

その上で、考え方の違いについても、わたしなりに受けとめたつもりでおります。その点についてはお互いに尊重するということとし、当方の稚拙な表現についての誤解について、少し加筆させていただきます。

①はっきり書きませんでしたが、登山の危険について、より深く認識していたのは、エリックと登山スタッフだったと思っています。むしろこの登山を企画したサブリエの姿勢に本来の危険性は内包されていたのではないでしょうか。その観点で、ボクは批判的に書いています。

②「好き」であっても、それが完全に純粋無垢なものであるとは限りません。エリックにもサブリエにもいくらかの功名心はあったと思っています。ボクは、そういう俗なる部分を否定するつもりはありません。本人が純粋無垢であるというなら別ですが・・・。
そのことも含めて、この状況・条件で、山が「好き」でないであろうサブリエが、教育の場として、本格的なラクパリ登山を選択したというのであれば、ボクにとっては、それは陳腐ということのなるのです。
また、「登頂しなければ登山そのものが無意味」と、ボクはひとことも述べておりませんし、そう思ってもおりません。ボクは、山が「好き」だと思っております。

③この部分はどうしても、同意はなくとも理解していただきたい部分です。
ボクは、サブリエの撤退の理由が「友情と連帯のため」というところが好きでないのです。なぜなら、「友情と連帯」は彼女の価値観だからです。彼女は、最後まで彼女の価値観を教えたかったのだと思います。ならば、彼女こそ彼女自身の「友情と連帯」を体現する必要があったと思うのです。ボクは、山では山に教えてもらえばいいと思うのです。彼女自身も。そうであれば、「山に触れ、力及ばずして撤退する。でも、楽しかった。」と言い得たのではないだろうかと思うのです。ボクは、そういうスタンスが好みだということです。

④ボクは、「(高山病で死者が出る)危険を冒しても登頂を目指すべきだった」とも、「登山は生きて帰る事が最も大事」とも思っておりません。繰り返しになりますが、ただ山が「好き」と思っているだけです。

⑤『正しい知識を持たないがゆえの偏見や思い込みに基づく言動は、容易に人を傷つけるということ』については、、ご指摘を真摯に受けとめたいと思います。
ボクとしては、正しい知識ということについて、たいへん懐疑的でありますので、当記事のみならず、全ての記事おいて、正しいとか正しくないとか、良いとか悪いとかいうことではなく、ボクはこう思うというスタンス、ボクは好きである、嫌いであるという言い方をするようにしているつもりです。そのあたりは、ご理解いただきたいと思います。
もし、サブリエ女史にお会いすることができ、思いを伝えることができるのであれば、ボクは、『あなたの行動に敬意を表します。しかし、もし山が「好き」でないのなら、ラクパリ登山という選択をすることは、無謀だったと思います。もし、教育の場としてラクパリを選んだというのであれば、勉強不足だと思います。でも、山、良かったでしょ?』と言いたいと思います。




 紫狼さま

 いろいろと、厳しいご指摘、ありがとうございました。
 また、考えるご縁をいただき、楽しませていただきました。
 山はいいですよね。




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by e.wash-r | 2012-04-08 23:29 | Tibet/西蔵 | Comments(16)