2017年 07月 10日 ( 2 )
暇ということにしてしまえばいい
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20年前



土砂降りの中、こどもの同級生のお母さんが来訪。

用はすぐ済みましたが、しばらく雨宿りしてもらうことに。「今日は、暇なんですか?」と言われ、ふたつほど予定はあったのですが、こういう機会もそうないだろうと思って、「暇です。」と答え、コーヒーを入れて、しばらく話し込みました。

懐かしい話、こどもたちのことに加え、親の話とか、郷里の話とか。

話し込んでいて思ったのですが、ボクたちは、少なくともボクは、意外と人と話す機会が少ないということ。

坊主なので、おまいり先で込み入った話になることは多々。そこまでいいの、ということもしばしば。でも、そのとき、ボクはたぶん緊張しています。悪く言えば振る舞っているし、ひいき目で言えばつとめています。

それは大切なこととした上で、そういう会話ではなくて、普通の会話。

ごく親しい友人・知人をのぞけば、立場を超えて、誰かと忌憚なくゆっくり話すことは、実は、ほとんどないのではないかと思ったわけです。

世間においては、苦手な方とも深く頻繁に関わっているのに。


そんな風に思ったので、午後のおまいりは、「暇なのでおまいりに来ました。」という気分で。

でも、やっぱり、時間を気にしてしまいました。

最後のおまいり。疲れてきたし、はやく帰りたかったのですが、「ボクはもう暇になったんだから」と自分に言い聞かせ、なんとなくいつもより長居。ただ、それだけでしたが。


結論は「暇は必要」ということ、のような気がします。




                    
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by e.wash-r | 2017-07-10 22:55 | 遊びをせんとや生れけむ | Comments(0)
平和の鐘 -7月9日 岐阜空襲の日-
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岐阜市と仏教会の提唱で、毎年岐阜空襲のあった7月9日は、朝の9時に梵鐘を鳴らします。

仏教会が提唱した「お経を習いましょう」という夏休みのこどものお経教室とともに、「平和の鐘」として定着した行事です。

ご門徒さん、市民の方々といっしょに、丁寧に続けてきた有り難い行事だと思っています。


平和とは何か、戦争とは何だったのか、少し思いを巡らし、鐘を撞きました。


最近ながれてきた中で、気になったもの。終戦時、6歳だった老人の話です。

あの時は小さかったから日本が何と戦ってるか理解できてなかった。
皆敵が来た、敵が来たとしか言わなかったし、山の向こうは真っ赤に燃えてるから、とてつもなく恐ろしい怪物なのだと。
まさか人間と戦ってたとは。



当寺の梵鐘には、

寄進 門徒中
昭和二十二年九月

と刻まれています。

終戦のたった二年後です。困難の中での鋳造だったに違いありません。普通に集会鐘の鳴る日常を求められたのだと受け止めています。


7月9日は、次女の誕生日でもあります。

お祝いに、平和の鐘をひとつ余分に撞きました。正確には、途中でいくつ撞いたかわからなくなってしまったので、足りないよりはいいだろうと思って、10声よりは確実に多くなるように撞きました。

今年の平和の鐘は、12~15声くらい。

蒸し暑いですが、穏やかな日和です。時空限定の小さな小さな平和ですが。



                    
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by e.wash-r | 2017-07-10 19:43 | 智慧と慈悲 | Comments(0)