カテゴリ:Web法話( 33 )
テレホン法話録音会 -「ごはんができたよ」-
新築のM寺さんの会館。
筑間宗融先生の「愛楽仏法味」のお軸の掛かった座敷で、テレホン法話の録音。
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テレホン法話より  「ごはんができたよ。」

 修学旅行で京都を訪れた高校生の話です。
 先生方は、「自由見学やけど時間までに帰ってこなかったら晩メシ抜きやぞ。」と、こどもたちをホテルから送り出したのだそうです。約束の時間に、余裕を持って帰ってくるこどもたち、遅れてはいけないとタクシーに乗ってきたこどもたち、ほとんどは時間厳守だったそうです。ところが数人が、時間をずいぶん過ぎても帰って来ませんでした。遅刻したら叱られるばかりでなく、夕飯も食べられないと考えたこどもたちは、遅刻ついでにゆっくり夕飯を食べていたらしいのです。なんともちゃっかりした高校生です。
 ところで、もし彼らが単に遅刻して帰ってきた場合、彼らはホテルの夕食を食べることができたのでしょうか。それは、先生の腹づもりひとつのことではありますが、ただひとつ確実に言えることがあります。遅刻しようがしまいが、ホテルの夕食は彼らの分もちゃんと作ってあったということです。
 懐かしく思い出す自分がこどもの頃の情景があります。
 日が暮れても川や田んぼで遊び続けるボクたちを、誰かのおばあちゃんかおかあさんが呼びに来るのです。もう帰らないと叱られるかなと思いながら、それでもまだまだ遊び足りなくて、家に帰らないボクたちを、『もう帰っておいで。』と迎えに来るのです。川で魚を捕まえていても、田んぼで三角ベースをしていても、なかよくしていようがケンカをしていようが、『ごはんやよ。』と誰かが呼びにくるのです。
 ボクたちがどこでどうしているかにかかわらず、家ではもうごはんができているわけです。
 「ごはんができたよ。」と呼ぶ声に、ボクたちは「すでにお浄土へ迎える準備は整えたよ。安心して日暮らしをしなさい。」と呼びかけてくださるほとけさまの慈悲のこころを重ねて聞いているような気がします。
 よい子しか呼んでもらえないのならつらいけど、「ごはんができたよ。」と呼ぶ声は、すでに十方に響き、もうごはんできちゃってるんですよね。
                                                 合掌





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by e.wash-r | 2009-04-22 23:39 | Web法話 | Comments(0)
テレホン法話録音会 -五十六億和讃の合間に-
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定例のテレホン法話録音会。

現チラシの未録分と、2009/5/4以降のの分の原稿の読み合わせ、録音をしました。

お取り越し真っ最中、たぶん過去最低の出席率です。事務局として、苦言を呈すのがスジかとは思いますが、来年3月の次回録音会までの分の録音ができたので◎です。

お取り越し、お寺の報恩講のこと、選挙のこと等、久しぶりに楽しい情報交換ができました。いい骨休めになりました。






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by e.wash-r | 2008-12-10 02:37 | Web法話 | Comments(0)
web法話『無財の七施 4』 本巣市根尾水鳥 西光寺 橡川常彰
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【テキスト版】

web法話『無財の七施 4』 本巣市根尾水鳥 西光寺 橡川常彰

  眼施、和顔施、そして三つ目を、言辞施と言います。言葉の施しの事であります。
 私達は、毎日色々な言葉を話します。言葉によって心を伝えて、コミュニケーションをします。時には、人を勇気付けたり、時には、傷付いた心を癒したり、時には、喧嘩になる事もあり、便利な事もあるのですが、まったく厄介な事もあります。
 そう言えば有名なサザンオールスターズの曲に愛の言霊と言うものがあります。私には難しくてよく分からない歌なのですが、言霊と言う題名からおそらく、「言葉は心を込めて話しましょう。」と、言う意味だと思いました。
 余談ですが、私には早すぎてほとんど歌えません。
 言葉は聞く人の心を動かします、ですから優しい言葉で接していきなさい、それが大きな施しになると、教えてくれます。
 ある本には、口に関わる悪を、妄語(うそをつく)綺語(きれいごと)悪口(人の悪口をいう)両舌(ふたまた使い)の、四つとしてあげていました。相手を喜せたり、励ます事はいくらでもあるわけです。
 罪作りではありますが、出来るだけ優しい気持ちで接していきなさいと教えてくれます。 合掌


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by e.wash-r | 2005-12-26 15:44 | Web法話 | Comments(0)
web法話『無財の七施 3』 本巣市根尾水鳥 西光寺 橡川常彰
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【テキスト版】

web法話『無財の七施 3』 本巣市根尾水鳥 西光寺 橡川常彰

 七つのお布施を、具体的に挙げています無財の七施の中の、眼施に付いては、前回ご紹介をさせて頂きましたが、温かいまなざしで人と接する事の大切さを教えてくれていました。眼差しの次は表情に付いてと、言う事なのでしょうか。
 第二の和顔施にいて考えてみたいと思います。
 経文には和顔悦色施と、記されています。やわらぐ、かお、よろこぶ、いろ、ほどこし、と書いて和顔悦色施と、言います。
 人と会うときは、やわらかな顔と、よろこびの表情で接しなさい、と教えてくれています。人とお付き合いをする時に、相手の顔色ばかり気になってしまい、人とのお付き合いが段々と窮屈なものになってしまう事はありませんか?
 美しい花を見て心が安らがない人は居ないでしょう、まず自分が相手にとって花の様な人になれるように、心掛がけて参りましょう。お互いに花を見ている時のように、和らいだ気持ちになれる事でありましょう。
 昔からのことわざに、病は気からと言うものがあります、軽い病気なら治ってしまう程、大切な心掛けなのです。
と、テレホン法話でのその表現は、少し大袈裟かもしれません。
 続きは次号での紹介とさせて頂きます。            合掌



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by e.wash-r | 2005-12-19 00:07 | Web法話 | Comments(0)
web法話『仏教とエコロジー2』 大垣市・縁覚寺 楠真
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web法話『仏教とエコロジー2』 大垣市・縁覚寺 楠真

【テキスト版】

 比叡山の修行に千日回峰行という、厳しい命懸けの修行があります。これを成就された酒井阿闍梨は修行中に、「途中で息絶えても比叡山の露になるのなら、それは本望だ」と語っておられました。たとい修行に挫折しても、自分の肉体が比叡の山の中で、木々の肥やしになれば良いという覚悟は、まさに命懸けの修行であることをよく示しています。同じに、自分の身体がいわゆる山川草木に囲まれて、包まれて生きているという酒井さんの感覚は、仏教的な自然観・生命観であると味わうことができます。思い起こせば、親鸞聖人もご自身の臨終について生前に、「それがし閉眼せば、加茂河にいれて魚にあたふべし」と語られたと伝えられています。
 仏教徒にとって、私といういのちの存在は、他者のいのちと密接に係わって、この世に存在するのだと教えられます。「我ある故に彼あり、彼ある故に我あり」という教えは「縁起」と表され仏教の根本真理とされています。私は自分勝手にこの世に在るのではなく、あらゆるいのちと支え合って生かされて在るのです。私の学生時代、ある先生は「縁起とは、もちつもたれつの関係のことをいうのだ」とおっしゃっていましたが、これはお互いが依存し合って成り立つという、いのちの本来の在り様のことを、分かりやすく言っているのです。
 私たちは、縁起の法によって、あらゆるいのちと支え合う関係にあるのだということを知らされます。つまり、私だけが尊いのではなく、人間だけが尊いのでもない。あらゆるいのちの存在が、共に尊いのだということです。ここから、生活実践として、いのちを育む行いを為していこうという思いが開かれてくるのです。自らのいのちの為に、他者のいのちの為に、今あなたなら何が出来ますか。環境問題はいのちの問題なのです。 合掌


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by e.wash-r | 2005-12-12 00:08 | Web法話 | Comments(0)
web法話『仏教とエコロジー』 大垣市・縁覚寺 楠真
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【テキスト版】

web法話 『仏教とエコロジー』 大垣市・縁覚寺 楠真

 仏教は、自然とのかかわりが非常に深い宗教であるといわれています。どうしてかというと、日本人にとって仏道というものと自然とは、ふたつながらにして救いの道であったからです。例えば、禅宗の僧侶であった良寛さんの辞世の句にも、自然と自分の関係が歌われています。「形見とて何を残さん春は花 山ほととぎす秋はもみじ葉」。つまり、「自分は形見に残すものは何も持たないし、何も残せるとは思わないが、自分の死後も自然はなお美しい。これがただ自分のこの世に残す形見になってくれるだろう」という歌です。
 私たち日本人は、昔から自然の中にこころのふる里を求めてきたのでしょう。私たちにとって、自然は人間に対立するものではなく、また従えるものでもなかったようです。つまり、人間のいのちを包み込んだ大いなるいのちとして、自然を大切にしてきたといえます。しかし、このように情感豊かに自然と接してきた日本人なのに、なぜ自然破壊を進めてしまったのでしょうか。
 作家の大仏次郎さんは、あるエッセイのなかで次のように書いておられます。「日本人は自然を愛する国民としてながめられてきた。どうやらこれは嘘で、わが家の朝顔だけを大切に育てて、公共の自然のことはあまり考えないのではないか。金儲けのためならば、緑の山も森も、容赦なく裸にむいて荒らしてしまう人間と、それをよそごとに無関係でいる人々の方が多いのである」と。
 さて、私たち念仏者は今後、どのように自然とかかわるべきなのでしょうか。次回は、仏教、念仏の教えに、生き方としての生命観を、あらためて味わってみたいと思っています。合掌



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by e.wash-r | 2005-12-07 00:40 | Web法話 | Comments(0)
web法話『世間のこと、良くも悪くも半分』大野町・西光寺 野村了嗣
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【テキスト版】

web法話 『世間のこと、良くも悪くも半分』  大野町・西光寺 野村了嗣

 和国の教主つまり日本のお釈迦様と親鸞聖人がたいへん尊敬された聖徳太子のお言葉に、「世間虚仮、唯仏是真」という一文があります。この世の物事は移ろいゆくもの、仮のものであって絶対と言うことはない。人間のやることに完全ということはない。ただ仏法だけが永遠不変の真実である、と味あわせていただくお言葉であります。
 しかしながら今私たちが生きる場は、この虚仮である世間でしかありません。話を先般の国政選挙に転じてみましょう。「改革」とか「民営化」という言葉が頻繁に飛び交いました。もちろんここではどの立場を支持すると言うお話ではありません。「国営」「民営」どちらが良いか悪いのか、そんなことはその時代その環境で変わるもので常にどちらか一方が必ず良いというものではありません。言ってみればどちらの制度にも長所も有れば短所もあるわけです。ただどの部分の長所が今の時代にどんな理由で求められ、逆にどんな短所が今緊急の問題点なのか、そこが論議のポイントとならなければいけないわけです。
 これは世間つまり私たち人間の営み、作り出す制度あるいは道具、機械それらにはおしなべて当てはまることでありましょう。だからどんな制度にしろハイテクな機械にしろ過剰な期待や信用、惚れ込みはかえって過ちの元となります。マル任せにしないことが大切です。半分良ければ半分悪いくらいに思っているくらいでちょうど良いのです。むしろやたらに長所が語られるときには、その影にある短所が見失われ、あるいは隠蔽される危険さえあります。ムードに流され付和雷同的に行動する。これが最も危ういことです。
 良くも悪くも半分。悪いと言ってもまんざら捨てたものでもないと、物事から少し距離をおいて見る。生きる上での仏教の智恵であります。                            合掌



◆wab法話のupが1週間ずれました。申し訳ありません。

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by e.wash-r | 2005-11-28 15:47 | Web法話 | Comments(0)
web法話 『おみがき』  本巣市・正尊寺 杉山雲来
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【テキスト版】 

web法話 『おみがき』  本巣市・正尊寺 杉山雲来

あるお宅へお参りに行ったときのことです。
このお宅はお姑さんが数年前、脳梗塞で倒れられ施設には入っておられます。もう六十に手が届こうという奥さんがお勤めのあと、とつとつとお話をはじめられました。

 私がお嫁に来た頃、お婆さんはとても厳しく、田圃や畑の仕事を言いつけられ、ほんの少しの休む時間さえ無かった。こうしてお取越を勤める頃、私が必死に野良仕事をさせられている間に、お婆さんは縁側でのんびり「おみがき」をしている。
 ところが、いざお寺さんに来てもらいお勤めとなると、どこかへ行っていなくなる。結局また私がお茶を出したりおロウソク着けたり、こき使われていると思っていた。
お庫裏さんにお参りに来てもらったときなど、腹いせによくよく愚痴話を聞いてもらったものです。
ところが今はそのお婆さんも動くことも話すこともできず寝たきり。
 きのうはお仏壇からお輪灯などをはずし、「おみがき」をしながら、なんでお仏壇の準備だけはして、肝心なお参りの時に居なくなっていたのだろうか・・・・
 いま考えると、お寺へはなかなかお参りに行かないこの私のために、家での法要の時くらいはご縁に合わすためだったのかなぁ?と、思われたそうです。

 還相、仏さまの世界からこの私を導くために菩薩となって帰ってくる。
 「おみがき」という共通の体験をしながら、このお嫁さんはお姑さんに還相の菩薩を感じられたのではなかっただろうかと、この話を聞きながら思いました。
合掌



◆web法話のUPが遅れました。申し訳ありません。

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by e.wash-r | 2005-11-23 01:21 | Web法話 | Comments(0)
web法話 『知らぬまに念仏』  本巣市・正尊寺 杉山雲来
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【テキスト版】

web法話  『知らぬまに念仏』  本巣市・正尊寺 杉山雲来

先日ご門徒とバス旅行に行ったときのことです。私の2・3列くらい後ろのご婦人方の会話です。
 真宗講座の時、「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ・・・・」ずっと念仏しとる人いるよね、お話の内容と関係なく始終念仏しとる、ちょっと変やとおもわへん?
 そうそう、のべつまくなしで、あれはちょっとやりすぎやと私も思う。
 などなど・・・という会話から、
 そう言えばうちのお婆さんも昔、始終念仏し取ったわ。なに考えとるんやろ?と、ちょっと馬鹿にしとった。
けど、この頃真宗講座で話し聞いとるせいか、知らんまに念仏しとる時があるんやわ、ビックリしてまう!
 年とったせいやない?
 そうかも知れンねぇ~
というものです、私は思わず頬がゆるみました。というのも、その会話の主、この3年間一度も休まず法座に出席している方の声だとわかったからです。まだ五十代で三年前に真宗講座を立ち上げた時から熱心にお聴聞されるようになった方です。
 確かな法は聞くことによって、自ずとその人の中に入り働き出す。しかも、本人が意識をしようとしまいと活動をする、そこに生きた法の証があるのではないでしょうか。自らの計らいを離れた念仏があることを、何気ない会話の中で知らされ、お聴聞するということは、いかに素晴らしいものであるか、あらためて思ったことです。          合掌


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by e.wash-r | 2005-11-07 22:28 | Web法話 | Comments(0)
web法話 『「曇鸞大師 3』  関市・光圓寺 日野安晃
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web法話 『「曇鸞大師 3』  関市・光圓寺 日野安晃

不老長寿といってもまさか死なないわけにはいきません。そもそも、まだ死ぬわけにはいかぬ、と不安や焦りを感じてしまう生き方に問題はないでしょうか。
 たとえば、受験生の息子を見ていると(自分にも覚えがあるし無理からぬ話ですが)、とても今を楽しむ、という生き方にはなっていません。受験勉強は苦しく嫌なもので、高校に入ったら、大学に入ったら、と楽しみは常に未来です。今夜、死ななければならないとしたら、さぞかし無念なことだと思います。勉強にしろ、仕事にしろ、私たちは、それを今に楽しむ工夫をせず、将来の楽しみのために今を我慢するか、刹那的な快楽に身を任せてしまいがちですが、どちらにしても不安と焦り、虚しさから逃れることはできないでしょう。仏教ではそのような生き方を是としません。
 それではどうしたらいいのか?
 曇鸞大師は、様々な論を講説されるような大変な学者ですから、『観経』もご覧になられていたはずです。けれども、機縁が熟すとはこういうことかもしれません。いつのまにか偉い学者、賢い自分とうぬぼれていたが、とんでもない。今までは仏教を頭で、理屈として研究して分かったつもりでいたに過ぎない。本当に賢い者ならば、それで救われたのだろうが、私にはできなかった、と愚痴無智の一凡夫に立ち返って『観経』をいただくと、お浄土が「一切のものはすべて空である」という仏教の道理を一つもはずさず、しかも単なる理屈を超えて、今、現に、私に働きかけてくださってある仏さまの慈悲のお働きであることがしみじみと感得され、阿弥陀仏のご本願を仰ぐ、お念仏者となられました。
 そうです。小さな自分のいのちを捨てて大きな仏さまのいのちに出遭わしていただくのです。        合掌


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by e.wash-r | 2005-10-31 17:46 | Web法話 | Comments(0)