西蔵坊だより:Web法話
2009-04-26T09:03:59+09:00
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岐阜 浄土真宗本願寺派正蓮寺住職鷲岡嶺成の雑記です
Excite Blog
テレホン法話録音会 -「ごはんができたよ」-
http://pochi21.exblog.jp/10779547/
2009-04-22T23:39:00+09:00
2009-04-26T09:03:59+09:00
2009-04-23T01:41:29+09:00
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Web法話
筑間宗融先生の「愛楽仏法味」のお軸の掛かった座敷で、テレホン法話の録音。
テレホン法話より 「ごはんができたよ。」
修学旅行で京都を訪れた高校生の話です。
先生方は、「自由見学やけど時間までに帰ってこなかったら晩メシ抜きやぞ。」と、こどもたちをホテルから送り出したのだそうです。約束の時間に、余裕を持って帰ってくるこどもたち、遅れてはいけないとタクシーに乗ってきたこどもたち、ほとんどは時間厳守だったそうです。ところが数人が、時間をずいぶん過ぎても帰って来ませんでした。遅刻したら叱られるばかりでなく、夕飯も食べられないと考えたこどもたちは、遅刻ついでにゆっくり夕飯を食べていたらしいのです。なんともちゃっかりした高校生です。
ところで、もし彼らが単に遅刻して帰ってきた場合、彼らはホテルの夕食を食べることができたのでしょうか。それは、先生の腹づもりひとつのことではありますが、ただひとつ確実に言えることがあります。遅刻しようがしまいが、ホテルの夕食は彼らの分もちゃんと作ってあったということです。
懐かしく思い出す自分がこどもの頃の情景があります。
日が暮れても川や田んぼで遊び続けるボクたちを、誰かのおばあちゃんかおかあさんが呼びに来るのです。もう帰らないと叱られるかなと思いながら、それでもまだまだ遊び足りなくて、家に帰らないボクたちを、『もう帰っておいで。』と迎えに来るのです。川で魚を捕まえていても、田んぼで三角ベースをしていても、なかよくしていようがケンカをしていようが、『ごはんやよ。』と誰かが呼びにくるのです。
ボクたちがどこでどうしているかにかかわらず、家ではもうごはんができているわけです。
「ごはんができたよ。」と呼ぶ声に、ボクたちは「すでにお浄土へ迎える準備は整えたよ。安心して日暮らしをしなさい。」と呼びかけてくださるほとけさまの慈悲のこころを重ねて聞いているような気がします。
よい子しか呼んでもらえないのならつらいけど、「ごはんができたよ。」と呼ぶ声は、すでに十方に響き、もうごはんできちゃってるんですよね。
合掌
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テレホン法話録音会 -五十六億和讃の合間に-
http://pochi21.exblog.jp/10010967/
2008-12-10T02:37:36+09:00
2008-12-10T02:38:31+09:00
2008-12-10T02:38:31+09:00
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Web法話
定例のテレホン法話録音会。
現チラシの未録分と、2009/5/4以降のの分の原稿の読み合わせ、録音をしました。
お取り越し真っ最中、たぶん過去最低の出席率です。事務局として、苦言を呈すのがスジかとは思いますが、来年3月の次回録音会までの分の録音ができたので◎です。
お取り越し、お寺の報恩講のこと、選挙のこと等、久しぶりに楽しい情報交換ができました。いい骨休めになりました。
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web法話『無財の七施 4』 本巣市根尾水鳥 西光寺 橡川常彰
http://pochi21.exblog.jp/3953067/
2005-12-26T15:44:13+09:00
2005-12-26T15:44:13+09:00
2005-12-26T15:44:13+09:00
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Web法話
【テキスト版】
web法話『無財の七施 4』 本巣市根尾水鳥 西光寺 橡川常彰
眼施、和顔施、そして三つ目を、言辞施と言います。言葉の施しの事であります。
私達は、毎日色々な言葉を話します。言葉によって心を伝えて、コミュニケーションをします。時には、人を勇気付けたり、時には、傷付いた心を癒したり、時には、喧嘩になる事もあり、便利な事もあるのですが、まったく厄介な事もあります。
そう言えば有名なサザンオールスターズの曲に愛の言霊と言うものがあります。私には難しくてよく分からない歌なのですが、言霊と言う題名からおそらく、「言葉は心を込めて話しましょう。」と、言う意味だと思いました。
余談ですが、私には早すぎてほとんど歌えません。
言葉は聞く人の心を動かします、ですから優しい言葉で接していきなさい、それが大きな施しになると、教えてくれます。
ある本には、口に関わる悪を、妄語(うそをつく)綺語(きれいごと)悪口(人の悪口をいう)両舌(ふたまた使い)の、四つとしてあげていました。相手を喜せたり、励ます事はいくらでもあるわけです。
罪作りではありますが、出来るだけ優しい気持ちで接していきなさいと教えてくれます。 合掌
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よ う こ そ 『 西 蔵 坊 だ よ り 』 へ
『西蔵坊だより』は、 森鏡山 正蓮寺の住職の日記です。
仏教のこと、山や川や海のこと、TIBETのこと等、思いつくまま書いています。
よろしければ、TopPageより、ゆっくりご覧ください。
『西蔵坊だより』TopPage
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web法話『無財の七施 3』 本巣市根尾水鳥西光寺 橡川常彰
http://pochi21.exblog.jp/3922330/
2005-12-19T00:07:03+09:00
2005-12-19T00:07:03+09:00
2005-12-19T00:07:03+09:00
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Web法話
【テキスト版】
web法話『無財の七施 3』 本巣市根尾水鳥西光寺 橡川常彰
七つのお布施を、具体的に挙げています無財の七施の中の、眼施に付いては、前回ご紹介をさせて頂きましたが、温かいまなざしで人と接する事の大切さを教えてくれていました。眼差しの次は表情に付いてと、言う事なのでしょうか。
第二の和顔施にいて考えてみたいと思います。
経文には和顔悦色施と、記されています。やわらぐ、かお、よろこぶ、いろ、ほどこし、と書いて和顔悦色施と、言います。
人と会うときは、やわらかな顔と、よろこびの表情で接しなさい、と教えてくれています。人とお付き合いをする時に、相手の顔色ばかり気になってしまい、人とのお付き合いが段々と窮屈なものになってしまう事はありませんか?
美しい花を見て心が安らがない人は居ないでしょう、まず自分が相手にとって花の様な人になれるように、心掛がけて参りましょう。お互いに花を見ている時のように、和らいだ気持ちになれる事でありましょう。
昔からのことわざに、病は気からと言うものがあります、軽い病気なら治ってしまう程、大切な心掛けなのです。
と、テレホン法話でのその表現は、少し大袈裟かもしれません。
続きは次号での紹介とさせて頂きます。 合掌
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web法話『仏教とエコロジー2』 大垣市・縁覚寺 楠真
http://pochi21.exblog.jp/3893670/
2005-12-12T00:08:49+09:00
2005-12-12T00:08:49+09:00
2005-12-12T00:08:49+09:00
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Web法話
web法話『仏教とエコロジー2』 大垣市・縁覚寺 楠真
【テキスト版】
比叡山の修行に千日回峰行という、厳しい命懸けの修行があります。これを成就された酒井阿闍梨は修行中に、「途中で息絶えても比叡山の露になるのなら、それは本望だ」と語っておられました。たとい修行に挫折しても、自分の肉体が比叡の山の中で、木々の肥やしになれば良いという覚悟は、まさに命懸けの修行であることをよく示しています。同じに、自分の身体がいわゆる山川草木に囲まれて、包まれて生きているという酒井さんの感覚は、仏教的な自然観・生命観であると味わうことができます。思い起こせば、親鸞聖人もご自身の臨終について生前に、「それがし閉眼せば、加茂河にいれて魚にあたふべし」と語られたと伝えられています。
仏教徒にとって、私といういのちの存在は、他者のいのちと密接に係わって、この世に存在するのだと教えられます。「我ある故に彼あり、彼ある故に我あり」という教えは「縁起」と表され仏教の根本真理とされています。私は自分勝手にこの世に在るのではなく、あらゆるいのちと支え合って生かされて在るのです。私の学生時代、ある先生は「縁起とは、もちつもたれつの関係のことをいうのだ」とおっしゃっていましたが、これはお互いが依存し合って成り立つという、いのちの本来の在り様のことを、分かりやすく言っているのです。
私たちは、縁起の法によって、あらゆるいのちと支え合う関係にあるのだということを知らされます。つまり、私だけが尊いのではなく、人間だけが尊いのでもない。あらゆるいのちの存在が、共に尊いのだということです。ここから、生活実践として、いのちを育む行いを為していこうという思いが開かれてくるのです。自らのいのちの為に、他者のいのちの為に、今あなたなら何が出来ますか。環境問題はいのちの問題なのです。 合掌
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web法話『仏教とエコロジー』 大垣市・縁覚寺 楠真
http://pochi21.exblog.jp/3873093/
2005-12-07T00:40:07+09:00
2005-12-07T00:40:07+09:00
2005-12-07T00:40:07+09:00
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Web法話
【テキスト版】
web法話 『仏教とエコロジー』 大垣市・縁覚寺 楠真
仏教は、自然とのかかわりが非常に深い宗教であるといわれています。どうしてかというと、日本人にとって仏道というものと自然とは、ふたつながらにして救いの道であったからです。例えば、禅宗の僧侶であった良寛さんの辞世の句にも、自然と自分の関係が歌われています。「形見とて何を残さん春は花 山ほととぎす秋はもみじ葉」。つまり、「自分は形見に残すものは何も持たないし、何も残せるとは思わないが、自分の死後も自然はなお美しい。これがただ自分のこの世に残す形見になってくれるだろう」という歌です。
私たち日本人は、昔から自然の中にこころのふる里を求めてきたのでしょう。私たちにとって、自然は人間に対立するものではなく、また従えるものでもなかったようです。つまり、人間のいのちを包み込んだ大いなるいのちとして、自然を大切にしてきたといえます。しかし、このように情感豊かに自然と接してきた日本人なのに、なぜ自然破壊を進めてしまったのでしょうか。
作家の大仏次郎さんは、あるエッセイのなかで次のように書いておられます。「日本人は自然を愛する国民としてながめられてきた。どうやらこれは嘘で、わが家の朝顔だけを大切に育てて、公共の自然のことはあまり考えないのではないか。金儲けのためならば、緑の山も森も、容赦なく裸にむいて荒らしてしまう人間と、それをよそごとに無関係でいる人々の方が多いのである」と。
さて、私たち念仏者は今後、どのように自然とかかわるべきなのでしょうか。次回は、仏教、念仏の教えに、生き方としての生命観を、あらためて味わってみたいと思っています。合掌
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web法話『世間のこと、良くも悪くも半分』大野町・西光寺 野村了嗣
http://pochi21.exblog.jp/3834427/
2005-11-28T15:47:09+09:00
2005-11-28T17:42:56+09:00
2005-11-28T15:47:09+09:00
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Web法話
【テキスト版】
web法話 『世間のこと、良くも悪くも半分』 大野町・西光寺 野村了嗣
和国の教主つまり日本のお釈迦様と親鸞聖人がたいへん尊敬された聖徳太子のお言葉に、「世間虚仮、唯仏是真」という一文があります。この世の物事は移ろいゆくもの、仮のものであって絶対と言うことはない。人間のやることに完全ということはない。ただ仏法だけが永遠不変の真実である、と味あわせていただくお言葉であります。
しかしながら今私たちが生きる場は、この虚仮である世間でしかありません。話を先般の国政選挙に転じてみましょう。「改革」とか「民営化」という言葉が頻繁に飛び交いました。もちろんここではどの立場を支持すると言うお話ではありません。「国営」「民営」どちらが良いか悪いのか、そんなことはその時代その環境で変わるもので常にどちらか一方が必ず良いというものではありません。言ってみればどちらの制度にも長所も有れば短所もあるわけです。ただどの部分の長所が今の時代にどんな理由で求められ、逆にどんな短所が今緊急の問題点なのか、そこが論議のポイントとならなければいけないわけです。
これは世間つまり私たち人間の営み、作り出す制度あるいは道具、機械それらにはおしなべて当てはまることでありましょう。だからどんな制度にしろハイテクな機械にしろ過剰な期待や信用、惚れ込みはかえって過ちの元となります。マル任せにしないことが大切です。半分良ければ半分悪いくらいに思っているくらいでちょうど良いのです。むしろやたらに長所が語られるときには、その影にある短所が見失われ、あるいは隠蔽される危険さえあります。ムードに流され付和雷同的に行動する。これが最も危ういことです。
良くも悪くも半分。悪いと言ってもまんざら捨てたものでもないと、物事から少し距離をおいて見る。生きる上での仏教の智恵であります。 合掌
◆wab法話のupが1週間ずれました。申し訳ありません。
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web法話 『おみがき』 本巣市・正尊寺 杉山雲来
http://pochi21.exblog.jp/3810117/
2005-11-23T01:21:08+09:00
2005-11-23T01:21:08+09:00
2005-11-23T01:21:08+09:00
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Web法話
【テキスト版】
web法話 『おみがき』 本巣市・正尊寺 杉山雲来
あるお宅へお参りに行ったときのことです。
このお宅はお姑さんが数年前、脳梗塞で倒れられ施設には入っておられます。もう六十に手が届こうという奥さんがお勤めのあと、とつとつとお話をはじめられました。
私がお嫁に来た頃、お婆さんはとても厳しく、田圃や畑の仕事を言いつけられ、ほんの少しの休む時間さえ無かった。こうしてお取越を勤める頃、私が必死に野良仕事をさせられている間に、お婆さんは縁側でのんびり「おみがき」をしている。
ところが、いざお寺さんに来てもらいお勤めとなると、どこかへ行っていなくなる。結局また私がお茶を出したりおロウソク着けたり、こき使われていると思っていた。
お庫裏さんにお参りに来てもらったときなど、腹いせによくよく愚痴話を聞いてもらったものです。
ところが今はそのお婆さんも動くことも話すこともできず寝たきり。
きのうはお仏壇からお輪灯などをはずし、「おみがき」をしながら、なんでお仏壇の準備だけはして、肝心なお参りの時に居なくなっていたのだろうか・・・・
いま考えると、お寺へはなかなかお参りに行かないこの私のために、家での法要の時くらいはご縁に合わすためだったのかなぁ?と、思われたそうです。
還相、仏さまの世界からこの私を導くために菩薩となって帰ってくる。
「おみがき」という共通の体験をしながら、このお嫁さんはお姑さんに還相の菩薩を感じられたのではなかっただろうかと、この話を聞きながら思いました。
合掌
◆web法話のUPが遅れました。申し訳ありません。
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web法話 『知らぬまに念仏』 本巣市・正尊寺 杉山雲来
http://pochi21.exblog.jp/3740096/
2005-11-07T22:28:50+09:00
2005-11-07T22:26:42+09:00
2005-11-07T22:26:42+09:00
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Web法話
【テキスト版】
web法話 『知らぬまに念仏』 本巣市・正尊寺 杉山雲来
先日ご門徒とバス旅行に行ったときのことです。私の2・3列くらい後ろのご婦人方の会話です。
真宗講座の時、「なんまんだぶつ、なんまんだぶつ・・・・」ずっと念仏しとる人いるよね、お話の内容と関係なく始終念仏しとる、ちょっと変やとおもわへん?
そうそう、のべつまくなしで、あれはちょっとやりすぎやと私も思う。
などなど・・・という会話から、
そう言えばうちのお婆さんも昔、始終念仏し取ったわ。なに考えとるんやろ?と、ちょっと馬鹿にしとった。
けど、この頃真宗講座で話し聞いとるせいか、知らんまに念仏しとる時があるんやわ、ビックリしてまう!
年とったせいやない?
そうかも知れンねぇ~
というものです、私は思わず頬がゆるみました。というのも、その会話の主、この3年間一度も休まず法座に出席している方の声だとわかったからです。まだ五十代で三年前に真宗講座を立ち上げた時から熱心にお聴聞されるようになった方です。
確かな法は聞くことによって、自ずとその人の中に入り働き出す。しかも、本人が意識をしようとしまいと活動をする、そこに生きた法の証があるのではないでしょうか。自らの計らいを離れた念仏があることを、何気ない会話の中で知らされ、お聴聞するということは、いかに素晴らしいものであるか、あらためて思ったことです。 合掌
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web法話 『「曇鸞大師 3』 関市・光圓寺 日野安晃
http://pochi21.exblog.jp/3704406/
2005-10-31T17:46:30+09:00
2005-10-31T17:46:25+09:00
2005-10-31T17:46:25+09:00
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Web法話
【テキスト版】
web法話 『「曇鸞大師 3』 関市・光圓寺 日野安晃
不老長寿といってもまさか死なないわけにはいきません。そもそも、まだ死ぬわけにはいかぬ、と不安や焦りを感じてしまう生き方に問題はないでしょうか。
たとえば、受験生の息子を見ていると(自分にも覚えがあるし無理からぬ話ですが)、とても今を楽しむ、という生き方にはなっていません。受験勉強は苦しく嫌なもので、高校に入ったら、大学に入ったら、と楽しみは常に未来です。今夜、死ななければならないとしたら、さぞかし無念なことだと思います。勉強にしろ、仕事にしろ、私たちは、それを今に楽しむ工夫をせず、将来の楽しみのために今を我慢するか、刹那的な快楽に身を任せてしまいがちですが、どちらにしても不安と焦り、虚しさから逃れることはできないでしょう。仏教ではそのような生き方を是としません。
それではどうしたらいいのか?
曇鸞大師は、様々な論を講説されるような大変な学者ですから、『観経』もご覧になられていたはずです。けれども、機縁が熟すとはこういうことかもしれません。いつのまにか偉い学者、賢い自分とうぬぼれていたが、とんでもない。今までは仏教を頭で、理屈として研究して分かったつもりでいたに過ぎない。本当に賢い者ならば、それで救われたのだろうが、私にはできなかった、と愚痴無智の一凡夫に立ち返って『観経』をいただくと、お浄土が「一切のものはすべて空である」という仏教の道理を一つもはずさず、しかも単なる理屈を超えて、今、現に、私に働きかけてくださってある仏さまの慈悲のお働きであることがしみじみと感得され、阿弥陀仏のご本願を仰ぐ、お念仏者となられました。
そうです。小さな自分のいのちを捨てて大きな仏さまのいのちに出遭わしていただくのです。 合掌
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web法話 『「曇鸞大師 2』 関市・光圓寺 日野安晃
http://pochi21.exblog.jp/3670728/
2005-10-24T17:51:39+09:00
2005-10-24T17:49:32+09:00
2005-10-24T17:49:32+09:00
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Web法話
【テキスト版】
web法話 『「曇鸞大師 2』 関市・光圓寺 日野安晃
曇鸞大師は『大集経』という大部の経典の注釈書を完成するために、長寿を得ねばとてもこの仕事はやり遂げることができないと、不老長寿の法を求めて、江南に、仙術を極めたという陶弘景を訪ねます。三年ほどの修業の後、不老長寿の秘法に通達し仙経を付属され、さあ、早くもとの仕事にもどらねばと、意気揚々と帰り道を急がれた曇鸞大師、途中、洛陽でインドから仏典の翻訳に招かれていた菩提流支三蔵にあわれます。
お互いの情熱を語り合われたのでしょうか、勝手な想像ですが、多少、得意な面持ちで、仏法弘通のために不老長寿の法を得たことを伝えると、「不老長寿の法に何の益があろうか!どれほど寿命を延ばしたところで迷いの境涯を出ることにはならないではないか!」と一喝され、『観無量寿経』を授けられます。大師は、差し出されたお経の表題をご覧になられるやいなや、そうだ!仏教は五十年や百年の寿命を問題にしていたのではなかった。まさに無量寿、永遠の生命、無量の寿命を得る仏になる道を問題にしていたのだった、と苦労して手に入れた仙経を惜しげもなく焼き捨ててしまわれるのです。
このあたりが曇鸞大師のすごいところです。私たちは自分が手にしたものをなかなか手放すことなどできません。まして、それが苦労して手に入れたものならばなおさらです。
不老長寿といってもまさか死なないわけにはいきません。
ということは、そもそも、まだ死ぬわけにはいかぬ、と不安や焦りを感じてしまう生き方にこそ問題があるということです。
それではどうしたらいいのか?
それを、次回、曇鸞大師に、さらにおたずねすることにいたします。
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web法話 『「曇鸞大師 ①』 関市・光圓寺 日野安晃
http://pochi21.exblog.jp/3634844/
2005-10-17T08:22:00+09:00
2008-10-18T01:09:16+09:00
2005-10-17T08:21:24+09:00
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Web法話
【テキスト版】
『曇鸞大師 ①』 関市・光圓寺 日野安晃
曇鸞大師は、天親菩薩から5百年ほど後、南北朝時代の中国で活躍されました。梁の天子蕭王が、常に大師のいらっしゃる方角に向かって礼拝したといいます。大師の名声が当時いかに高かったかがうかがわれますが、このことに親鸞聖人が注目されるのは、指導的立場におられる人が仏法を篤く敬われておられた、ということによほど感激されたのだと思われます。
大師ははじめ、龍樹菩薩の顕された「空」の思想を学ばれました。『中論』『百論』『十二門論』『大智度論』など、難解な論書の講義をされるほどの大変な学者でしたが、『大集経』という大部の経典の注釈書にとりかかられたときに病を得、快癒したものの、長寿を得ねばとてもこの仕事はやり遂げることができないと、不老長寿の法を求めて、江南に、仙術を極めたという陶弘景を訪ねます。
大師は学者として、哲学的に難解な「空」の思想を身につけておられました。あらゆる執着を離れ、生死さえも超えた大安心の境地を講義しておられたはずが、たまたま病気になってみると、日頃の学問もまるで役に立たず、まだ死ぬわけにはいかん、とうろたえねばならなかったのです。もっとも大師の場合、仏教を学び、また、多くの人に広めるために健康で長生きがしたいというのですから私たちにはなかなか真似のできないことですが、皆さんはこれをどう思われますか?
まあ、お寺のご院さんがこっそりお多賀さんに参詣するようなものでかっこ悪い話ではありますが、もともと優秀な方でしたから、三年ほどの修行で不老長寿の秘法に通達し仙経を付属されたといいます。付属というのは、暖簾分けみたいなことですからさすがは曇鸞大師、と言いたいところですが本当にすごいところは次回となります。
【 1年前の今日のblog 】
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『西蔵坊だより』TopPage
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web法話 『いのちの音』 岐阜市・妙圓寺 佐々木博
http://pochi21.exblog.jp/3566201/
2005-10-03T12:16:00+09:00
2008-10-05T10:33:52+09:00
2005-10-03T18:22:37+09:00
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Web法話
【テキスト版】
web法話 『いのちの音』 岐阜市・妙圓寺 佐々木博
先日、日曜学校の研修会に行ってきました。
そこで、本願寺の境内を使ってネイチャーゲームといって、私の周りにどんな音が聞こえてくるのか、聞こえてくる音を目を閉じて 自分なりに表現し紙に書いてみようと、先生から問いがありました。
すると、風の音、木の揺れる音、鳥のさえずりや、子どもたちの声人が歩く音、虫の音、ほんの数分間の間にたくさんの音を聞くことができました。 周りの音を通じて、いろいろな「いのち」に出逢えたようで新鮮な感じでありました。
とかく、忙しさにかまけていると、雑念に捕らわれてしまい、聞こえる音も聞こえなくなり、また、見えるものも見えなくなるようになっている私であると反省したことであります。
金子みすづさんの詩に「星とたんぽぽ」という詩があります。
青いお空の底ふかく
海の小石のそのように
夜がくるまで沈んでいる
昼のお星は眼に見えぬ
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ
散ってすがれたたんぽぽの
瓦のすきにだぁまって
春のくるまでかくれている
つよいその根は眼にみえぬ
見えぬけれどもあるんだよ
見えぬものでもあるんだよ
私たちは気づかないところで息づき、見えないところで生き抜いている「いのち」があることを教えてくれる詩です。
その見えない「いのち」にこそ私たちは支えられているのだと感じました。
【 1年前の今日のblog 】
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web法話 『靖国からの還浄②』 瑞穂市・善徳寺 藤村真樹
http://pochi21.exblog.jp/3532326/
2005-09-26T23:59:00+09:00
2005-09-27T00:03:32+09:00
2005-09-27T00:01:30+09:00
e.wash-r
Web法話
【テキスト版】
web法話 『靖国からの還浄②』 瑞穂市・善徳寺 藤村真樹
昭和十六年、中国でのことでした。
私は、五・六人の先輩とともに、敗残兵の討伐にでかけました。河川敷のヨシの中に女性や子どもが二十人程逃げ込んでいました。
すると突然、一年先輩の上等兵が軽機関銃を発砲した。悲鳴があがった。地獄の光景だった。あまりのことに私は思わず「何でこんなことを」と叫んだ。上等兵は言った。
「むかむかしたでや」
でたらめだった。虐殺、強姦、放火、強奪は、日常的だった。
壕の中で泣き声をあげたために殺された沖縄の赤ん坊、政府がとっくに終戦を決断していた時期に日の丸の鉢巻きをしめて飛び立った特攻兵は、神だ。しかし、本当の戦争犠牲者は、アジアの人たちであって、救済すべきはアジアの人々だ。私は、戦後軍人恩給の受け取りを拒否してきた。自分が恩給をもらう事に強い抵抗感があった。
首相は、靖国神社に参拝する前に、まずアジアの死者を悼み、沖縄の赤ん坊を悼むべきだ。
戦後、軍人恩給を拒否し続けてきた 元陸軍軍曹 尾下大造さん 八十三歳の言葉です。
先の戦争でのアジアの人たちの死傷者は、三千万人と言われます。内、靖国神社に祀られた方は、二百十万人です。
あの戦争で犠牲になった方々全ての痛み、無念を受けとめる時、国と国との枠組みを超え、敵・味方の選別をせず、軍人・民間人・住民としての立場を超えて、為さねばならないものがあるはずです。
理不尽な死に方をなされた大勢の戦争犠牲者、その犠牲の上で「英霊か戦争犯罪人」とか「祀る祀らない」ですったもんだする姿は、憤りを越えて滑稽でさえあります。
人の世は、地獄の上の花見かな
犠牲になった方の地獄を忘れてはなりません。 合掌
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『西蔵坊だより』は、 森鏡山 正蓮寺の住職の日記です。
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web法話 『ご縁』 岐阜市・超宗寺 鷲見充晃
http://pochi21.exblog.jp/3459145/
2005-09-12T23:05:13+09:00
2005-09-12T23:04:32+09:00
2005-09-12T23:04:32+09:00
e.wash-r
Web法話
【テキスト版】
『ご縁』 岐阜市・超宗寺 鷲見充晃
最近、テレビやラジオなどで、「ご縁」という言葉をよく耳にします。割と若い年代の方も使っておられ、ありがいなぁと聞かせていただいていることです。が、よくよく聞いてみると、自分にとって都合のいいことは、「ご縁」と言いますが、そうでない時に使っているのを聞いたことがありません。
話は変わりますが、別の言葉で「縁起がいい」とか「縁起が悪い」という言葉もよく耳にします。そもそも「縁起」とは、縁によって起きると書きます。そのことにそもそもいいも悪いもありません。ところが、そこに私の計らいが入ると、「いい」やら「悪い」という判断が出てきます。私の計らいでみていますから、人との違いもでてきます。更に、「いい」とか「悪い」という判断をつけていくなかで、ひょっとすると「無駄」なものを自ら作り出していないでしょうか?
私の身のまわりにあるもの、起こること全て何一つ無駄なものはありません。雨が降ると嫌だな!と思っても、雨も降ってもらわないと困ります。私にとって、よかろうが、悪かろうが、全てを「ご縁」として受け取っていくところに、昔からいう「おかげさま」という世界があり、その上にたって始めて、手の合わさっていく姿が備わっていくのではないでしょうか?
今一度、私にとっての「ご縁」というものを考えてみませんか? 合掌
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