カテゴリ:智慧と慈悲( 257 )
『お寺が消えてゆく』を見て
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NHKのルポ『お寺が消えてゆく』を見ました。

過疎化と困窮の中のお寺の存続に焦点を当てた番組です。当、浄土真宗本願寺派の宗門の取り組みもクローズアップされていました。

単純な問題ではないので、焦点のあて方によって、問題の方向は多岐にわたると思います。ボクは、「格差」の問題と受け取りました。

その上で・・・。

格差は存在します。現実問題として、寺院を護持する「経済」力に平等などあり得ません。でも、そのなかで、少なくとも我が教団は、本願寺を護持し、各寺院を護持してきました。事実として、護持してきたわけです。

それが、厳しくなってきている、という状況。このことも。やはり、事実として受け止めなくてはなりません。

何が変わったのか?ということは、ボクにはよくわかりません。ただ、いままでは、格差がなかったーということではないと思います。

たぶん、

おみのりやお寺のすがたがありがたかった
懇志・懇念で護持してきた

ということ。

消えていくかもしれないけれど、

おみのりのお寺でありたいですね。
懇志を完納しないのは不公平だ!などという、恥ずかしい発言だけはしたくないですね。





by e.wash-r | 2017-08-04 23:03 | 智慧と慈悲 | Comments(0)
平和の鐘 -7月9日 岐阜空襲の日-
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岐阜市と仏教会の提唱で、毎年岐阜空襲のあった7月9日は、朝の9時に梵鐘を鳴らします。

仏教会が提唱した「お経を習いましょう」という夏休みのこどものお経教室とともに、「平和の鐘」として定着した行事です。

ご門徒さん、市民の方々といっしょに、丁寧に続けてきた有り難い行事だと思っています。


平和とは何か、戦争とは何だったのか、少し思いを巡らし、鐘を撞きました。


最近ながれてきた中で、気になったもの。終戦時、6歳だった老人の話です。

あの時は小さかったから日本が何と戦ってるか理解できてなかった。
皆敵が来た、敵が来たとしか言わなかったし、山の向こうは真っ赤に燃えてるから、とてつもなく恐ろしい怪物なのだと。
まさか人間と戦ってたとは。



当寺の梵鐘には、

寄進 門徒中
昭和二十二年九月

と刻まれています。

終戦のたった二年後です。困難の中での鋳造だったに違いありません。普通に集会鐘の鳴る日常を求められたのだと受け止めています。


7月9日は、次女の誕生日でもあります。

お祝いに、平和の鐘をひとつ余分に撞きました。正確には、途中でいくつ撞いたかわからなくなってしまったので、足りないよりはいいだろうと思って、10声よりは確実に多くなるように撞きました。

今年の平和の鐘は、12~15声くらい。

蒸し暑いですが、穏やかな日和です。時空限定の小さな小さな平和ですが。



                    
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by e.wash-r | 2017-07-10 19:43 | 智慧と慈悲 | Comments(0)
黒野組連続研修(第9回)
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担当ではなくなったことと、第3土曜日は、自坊のお座が重なったりすることから、9回目にして、はじめての参加。

O師がご講師で『他力回向の信心』のお話をされるということだったので、たまたま法務等が重ならなかったこともありますが、後ろめたい気持ちながらも、楽しみに参加しました。

O師は、核心を、シンプルに、正面突破、直球勝負で、お話くださいました。講義でもお説教でもいいので、もっとゆっくり、たっぷり聞きたかったと思います。

その後は、いわゆる話し合い法座。基本、聞くだけの参加をしました。『「自力」の気持ちがなくならない』とおっしゃるYさんの発言を聞いてしまったので、休憩時間に、仏教で用いる「他力」「自力」という言葉の意味をお伝えしました。突然出席して、あつかましかったかもしれません。

研修終了後、講義の内容のことでO師と歓談。同じく「自力」ということばの使い方について。

いい会話ができたと思いましたが、第三者には、面倒くさい話だったようでした。「れんけん」の目玉は「話し合い法座」と聞いていますが、していい話といけない話があるのかもしれません。

会員制の研修に気まぐれで参加して、意見を言うというのは、確かに非常識だったような気がします。次回からは、黙って聞くか、欠席するかということになりそう。

O師とは、どこかで続きのご法義話をしよう、ということになりました。楽しみです




                    
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by e.wash-r | 2017-06-18 00:39 | 智慧と慈悲 | Comments(0)
成先生の勉強会 -「難」-
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再スタートした成先生の勉強会へ。

休憩時間のベレットGTRやラックスのアンプの話には、何とかついていけるのですが、相変わらず、先生の講義がなめらかに進めば進むほど、周回遅れ以上に全くついていけません。

そんななか、今回、たぶん、なんとか聞き取れたなかの、「そーゆーことかー」と、感激したことを少し。

浄土門において、往生は、如来の願いのはたらきそのまま。
聖道門において、行は、仏の仰せのそのまま。
いずれも、我は入らない。

行を、私の努力というように考えると、間違えることになるようです。行は、仏の示された通りのことを行うこと。

その認識に立てば、聖道門の方にも、浄土門、他力の論理は十分に通用するということ。


また、儀式儀礼等について、

浄土門は、私の側の仏徳讃嘆であり、私の報恩行。如来の示された定めではない。
聖道門は、仏の示されたとおりに行ずること。

ということになり、根本的に意味合いがちがってきます。


関係して、「難行」の「難」、「難しい」の意について。

「難」は「できない」の意。凡夫の努力でなんとかなるということではないということ。なんとなく、「がんばればできる」みたいに思っていましたが、そういうレベルのことではない、ようです。

確かに、「難攻不落」の「難」は「不可能」の意ですし、「難癖をつける」の「難」は「ありえないこと」を意味します。

「難」だと思っていたことができたときは、それはもう、「難」ではなく「易」であり・・・

「易」だと思っていたことができなければ、それはもう、「易」ではなく「難」であり・・・


上記、先生のおっしゃったまま理解しているかどうか怪しいですが、ひとつ確実に言えることがあります。

ボクが先生の講義についていけないのは、講義が「難しい」のではなく、受講するボクの勉強不足・努力不足ということです。


帰り、法友のお寺におまいりしました。五月晴れ!




by e.wash-r | 2017-05-19 23:16 | 智慧と慈悲 | Comments(0)
本典勉学会1/24  顕浄土真実教行証文類
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Y師,U師が準備してくださった、安方哲嗣先生ご講師の『本典勉学会』に参加。広く、このような機会をつくってくださったことに、またボク自身がその縁にあえたこと、感謝したいと思います。

どれだけ素晴らしい講義を聞いても、最後は自分で勉強するかどうかということは身に染みてわかっているつもりですが、今回もまず聞くことから。

言い訳ですが、最低限続けて出席することを目標に、ついていきたいと思っています。


第1回の今回は総論・構造。『教行信証』著述の背景等々から。

著述・伝道には、それぞれの時代背景と対象・目的があるということ。(別件ですが、今、抱えている問題を考えるありがたい指標をいただきました。)

おおよそ、著述については、宗祖は他流を意識され、蓮如上人は異流を意識された・・・、そういう時代背景があったと。先生は、翻って、では、現代、ボクたちが意識しなければならない時代背景は何なのかということについても言及されました。それは科学(たぶん広義だとおもいます)なのだろう、とー

ボクとしては、宗門という身内・僧侶も加えたほうがいいのではないかと、生意気に、ひそかに思ったりして、含み笑いをしていた次第。

講義の端々に、安方先生節炸裂で、気持ちよく聞かせていただきました。続きが楽しみです。


本当は、こんなこと書いていないで、勉強しないといけないんでしょうが・・・。




                    
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by e.wash-r | 2017-03-27 23:58 | 智慧と慈悲 | Comments(0)
座布団が3枚
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冬の夜ね、灯りの点いた仏間を外から眺めるの、なかなかいいものです。

縁から仏間に入るとね、ストーブでほんのり暖かくて、お仏壇がきれいにお飾りされていて、座布団が3枚。

3枚の座布団。1枚はお仏壇の前。1枚はご院さん。1枚はおばあちゃん。

3枚あるけどね、座るのはふたり。

ボクが帰ると、おばあちゃんひとり。

よく“ひとりじゃないよ、ふたりだよ”って言うけど、でもね、やっぱりひとりはひとりじゃないかと思うわけで。

ひとり。

ひとりならね、“ひとり、お念仏。”でいいんじゃないかと。

ひねくれていると言われそうだけど、そういうことだよなあ。

と、ひとり思っています。














by e.wash-r | 2017-02-20 23:54 | 智慧と慈悲 | Comments(0)
春入千林處々鶯
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春入千林處々鶯
(春 千林に入りて 處々 鶯)

新春、初釜に掛ける慣いの句だそうです。

ミソサザイやメジロが飛び回っているので、たぶん鶯もどこかにいると思います。


私解

春は満つ、“法聞けよ”

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by e.wash-r | 2017-02-09 23:36 | 智慧と慈悲 | Comments(0)
ねてもさめても
吉田兼好法師の『徒然草』に次のような一節があります。


【徒然草 第39段(前半)】

或人、法然上人に、「念仏の時、睡にをかされて、行を怠り侍る事、いかがして、この障りを止め侍らん」と申しければ、「目の覚めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。

【意訳】

ある人が、「眠気におそわれて、お念仏を怠ってしまうことがあるのですが、どうしたものでしょうか」とたずねられました。
法然上人は、「目が覚めたら、お念仏申されよ」とお答えになりました。ありがたいことです。なんまんだぶ。



この一節を読むと、三木照国先生が、まじめなお同行の問いにこたえられたことばが浮かんできます。


お同行:「末代無智の章に、『ねてもさめてもいのちのあらんかぎりは、称名念仏すべきものなり』とあります。起きているときはともかく、眠っているときはどうしたらお念仏できるのでしょうか?」

三木先生:「起きていてもろくに念仏できんのやから、心配するな。」


ボクは、この三木先生の話が大好きです。


tunblrで流れてきた動画を見て、なんとなく、こういうことだと思いました。


その動画















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なんまんだぶ





                    
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by e.wash-r | 2017-01-20 23:04 | 智慧と慈悲 | Comments(0)
奈良へ
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三木先生が体調を崩され、勉強会が中断して約2年。「一度奈良へ行こう。」という声があがっていた矢先、「三木先生ご母堂さまご逝去」の報。

午後3時の一報後、電話、mail、LINE等々により、続々と勉強会法友の動向が集約されました。

岐阜の出発は午後8時。日帰りでお悔やみに。

お取越しのこの時期、みな必死で調整したのだと思います。8人、ワゴン1台に同乗して奈良へ。なんとしても、という思いがみなの中にあったのだと思います。ボクも、夕刻からのお取り越しとおじょうはん等を急遽変更してもらって、出発時間にすべりこみました。

奈良に着いたのは深夜。お疲れのところ、起きて待っていてくださった先生やご家族の方々には申し訳ないことでしたが、百歳のご母堂様がつくってくださった法縁と、半分はよろこばせていただきました。

元気な先生の”三木節”も健在。往復5時間の車中の歓談・深夜の食事・その食事中午前0時にはR師の誕生日のお祝いも。

有り難い奈良行きでした。

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時空を隔てた奈良のお供物に、感嘆。




                    
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by e.wash-r | 2016-11-08 23:13 | 智慧と慈悲 | Comments(0)
花火
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「Mちゃんの見た花火」



夜、揖斐へおまいり。ちょうど揖斐川の花火がはじまったところで、田んぼ道に浴衣姿。

今年は、長良川の花火を見ることができなくて寂しい思いをしていましたが、、思わぬ場所で、通りすがりながら、夏を味わうことができました。


過日、お孫さんのご法事をつとめられたNさんのおまいりの後のお話し。

「孫は花火の日に亡くなりました。今もまだ、花火を楽しむことができずにいます・・・」の意。

「花火」は見る人の情に映る、のですね。


情という思い入れがなくなればいいのか?
分別の世界を厭いきれるのか?

人は人としての有様に執着し続けるんでしょうね。ことばを換えると、人は死ぬまで人でいたいということ。

その人の人たる迷いをめあてにするほとけさま。

”花火が美しく見えなくてもいいよ。” そういうお慈悲。

”花火を美しく見えるようにすること”が、他力ではないと思うわけです。









                    
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by e.wash-r | 2016-08-14 00:33 | 智慧と慈悲 | Comments(0)