黒野組れんけん -仏事作法について-
黒野組れんけん -仏事作法について-_b0029488_812213.jpgまず、基本的な作法について

約束なのでいっしょに憶えました
黒野組れんけん -仏事作法について-_b0029488_8123530.jpg午後10時

研修が終わって

みんなで後片づけ




黒野組の連研、後期2回目。法光寺さんにて。

ボクが担当でした。

仏事作法は、仏徳賛嘆・報恩謝徳、信仰の歴史の中で、教団とお同行が築きあげてきたお荘厳そのものと、ボクは受けとめています。

人のすることなので、原理や聖典・みおしえとの整合性は追求しない、ないというスタンスで、問題提起とまとめを受け持ちました。

『清め塩は、穢れの思想だ!』などと一方的に我が教えの正当性を主張するような立場、習俗や迷信と単に否定するような立場、社会儀礼を受け付けないような立場で、仏事作法を語ることはできるだけ避けたつもりです。

「糺す」という姿勢のないことに軟弱という批判を受けましたが、仏事作法も「やっぱり阿弥陀さん」ですよねー。





                    【 1年前の今日のblog
                    【 2年前の今日のblog
                    【 3年前の今日のblog
                    【 4年前の今日のblog
                    【 5年前の今日のblog
by e.wash-r | 2010-05-17 23:25 | おまいりにて | Comments(2)
Commented by gizing at 2010-05-18 20:56 x
「糾す」という姿勢のないことは、軟弱ではなく、柔軟なんだと思います。

御文章の中で蓮如上人は、物忌みや他宗への批判、門徒が自らの立場の正当性を大声で表明することなどについて、教義の上からは好ましくないとされながら、要は「自分がそれをするかしないか」が問題なんだ、と繰り返し語られます。

お聴聞を重ねる中で、それらの行為の底にある驕慢さを知らされ、自ずから法に適った仏事作法が身に付いてゆく、というのが実際なんでしょう。

「で、自分はどうなのか?」 宗教はいつもここに帰ってまいるようです。

これが、狂信への陥穽を避ける勘所だと拝察します。
Commented by e.wash-r at 2010-05-19 01:18
「お聴聞」より「正義」が先になりがちな我々です。気をつけたいと思います。

ちょっと悶々としておりましたが、元気が出ました。

あたたかいコメントありがとうございました。


GIZINGさま



<< 恩師と同級生と 黒野組仏教壮年会総会 >>