過日、某研修会で。
「すべての人々の悲しみに寄り添う」のは誰?
「みんなちがってみんないい」と言うのは誰?
それは、やっぱり阿弥陀さんです。
ときどき、こんなことを言う人がいます。
「だから、南無阿弥陀仏をいただくものは、違いを認め、寄り添うことが大切なのだ。」
ほんとかなあ。いくつかの疑問。
①まず、ほとけさまに出遇わなくても、「違いを認め、寄り添うこと」は大切ですよね。
②ボクなりに「違いを認め、寄り添う」ことは、すこしは出来るかも知れません。
でも、ほとけさまは、「すべての人々」「みんな」と呼びかけられます。
ボクはボクの範疇で「違いを認め、寄り添う」んですよね。
③南無阿弥陀仏のおこころがうれしい。
でもそれは、ボクのこころが阿弥陀さまと同じになったということではありません。
ボクが「違いを認め、寄り添う」ということの中身は、たぶんちょっとあやういんです。
社会の常識として、できるときに、できることを、まちがっているかもしれないけれど、ボク流に「違いを認め、寄り添う」ことをしてみるしかないんでしょうね。
あみださまの願いだから、すべて平等に、真実の正義として「違いを認め、寄り添う」というのは、傲慢だと思います。
まあ、どうでもいいことですが・・・。
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