「すべての悲しみに寄り添う」とか「みんなちがってみんないい」とか
「すべての悲しみに寄り添う」とか「みんなちがってみんないい」とか_b0029488_85885.jpg


過日、某研修会で。


  「すべての人々の悲しみに寄り添う」のは誰?

  「みんなちがってみんないい」と言うのは誰?


それは、やっぱり阿弥陀さんです。




ときどき、こんなことを言う人がいます。

  「だから、南無阿弥陀仏をいただくものは、違いを認め、寄り添うことが大切なのだ。」


ほんとかなあ。いくつかの疑問。


①まず、ほとけさまに出遇わなくても、「違いを認め、寄り添うこと」は大切ですよね。

②ボクなりに「違いを認め、寄り添う」ことは、すこしは出来るかも知れません。
 でも、ほとけさまは、「すべての人々」「みんな」と呼びかけられます。
 ボクはボクの範疇で「違いを認め、寄り添う」んですよね。

③南無阿弥陀仏のおこころがうれしい。
 でもそれは、ボクのこころが阿弥陀さまと同じになったということではありません。
 ボクが「違いを認め、寄り添う」ということの中身は、たぶんちょっとあやういんです。



社会の常識として、できるときに、できることを、まちがっているかもしれないけれど、ボク流に「違いを認め、寄り添う」ことをしてみるしかないんでしょうね。

あみださまの願いだから、すべて平等に、真実の正義として「違いを認め、寄り添う」というのは、傲慢だと思います。



まあ、どうでもいいことですが・・・。







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by e.wash-r | 2011-08-21 23:47 | 智慧と慈悲 | Comments(2)
Commented by namo at 2011-08-03 09:21 x
恩徳讃 骨をくだきても 謝すべし  実践され 誠に有り難いことです。
違いといえば 阿弥陀さまの願いと 私の願いとの大きな違い。
今は 理想 目標ですが やがては・・・・
Commented by e.wash-r at 2011-08-06 18:15
ほとけになる身ということを、どう受けとめるかということなんだと思っています。もう15年以上前のnamoさまの姿勢を思い出します。

三木照国先生は、よく、信心即行動とおっしゃいます。


ことばの遊びにならないように、気をつけたいものです。


namoさま
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