最近考えたことを何回かに分けていくらか。
「遺言」というものに、なんとなくしっくりしないものを感じています。
すべての「遺言」ということではなく、希望・願望・要望を述べたものに、です。(欲望を述べたものというのが正確かもしれません。)
命あるうちは決して口にしなかった、したためた思いという意味では、その重さを受け止めるとしても、です。
しっくりこない理由のひとつは、「遺言」を遺した当人と会話ができないということ。構造上、絶対的に一方通行のことば、意思である点です。
繰り返しますが、秘めた深意には敬意を表したいと思います。しかし、「遺言」は、図らずも責任を負うことのない意思の表明になり得る、そういう感じが否めないのです。
言いたくても言えなかったこと、ある種の奥ゆかしさなのかもしれませんが。
もうひとつの理由は、「遺言」には、もの言わぬ「死」の付加価値が加わる要素があることです。「故人の意思」と言われたら、何も言えません。
反論できないという点、「死」によって固定される故人への敬意がことばの意味を凌駕するという点で、何やら一方的で絶対的な意思を内包するのが「遺言」の性だと思うのです。
乱暴で不敬な言い方になりますが、絶対性を帯びうる「遺言」を、「ひと」がしたため、「ひと」が読み解釈し用い、「ひと」が聞くという構造は、どう考えても危ういですよね。
「わたしのお墓の前で泣かないでください。」というアノ歌詞も同じ構造だとボクは思っています。
「わたし」と言いつつ、特別な「死者」や「風」の目線で語ることの横柄。生身の「わたし」が言うのであれば、「あなたのお墓の前でわたしは泣かない。」ということまでのような気がするのですが。
流行の「終活」も。
我が身の死の儀礼のプロデュースということであるなら、とんでもない勘違いだと思うわけです。
自分の死の儀礼を考えること
より、縁者の死に礼節を尽くすことが先です。
世の中、あまりに自分を主人公にしすぎていないかと、利己的なボクですら思う次第。
Tumblr 『西蔵防だよん』
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