浄妙寺真宗講座昼座のお聴聞。
ご葬儀に出ておられるご住職のお手替わりを若院さんがつとめられました。落ち着いてつとめられご様子に、我が自坊のことを思い、とりあえず、羨ましいいと思った次第。そんなところから、お聴聞が始まりました。
福岡弁の機知に富んだ巧みな話術にも引きこまれ、他力のお話を楽しませていただきました。
興味深く聞かせていただいた、百歳を超えてお元気だった徳之島の重千代さんの逸話。
「タバコは若い時にやめた。九十歳の頃。」
「甘えん坊なので、年上の女性が好き。」
時間というのは、相対なのだということ。翻って、”その時が来たら、お聴聞します。”というとき、”その時”とはいつなのか?という命題。
どうすれば救われるのか、いつ救われるのか、いつ救われたのか、という一連の問の答えはありません。
「救う。」という阿弥陀さまがおられ、「お浄土まいりが定まったわたし」がいるという関係は、阿弥陀さまとわたしがいるということだけです。
そう聞かせていただきました。
「そのとき」とは、ちょっとニュアンスは違いますが、「いつか」について書いたblog。
以下、
西蔵坊だより 『「クレイになれなかった男」再読』より
あしたのジョー、矢吹丈とはいったい何者だったのか。
ぼくらには"まっ白にに燃えつきる"ことなどありはしない、という前提がジョーを支えたある"熱い思い"なのだった。
・・・燃えつきるためにだけ燃えつきることの至難さと、それへの憧憬。
望みつづけ、望みつづけ、しかし"いつか"はやってこない。
沢木耕太郎『敗れざる者たち』のなかの「クレイになれなかった男」より。
Tumblr 『西蔵防だよん』
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