学生時代、よく勉強(研究)したとは言えませんが、S先生からフィールドワークということは叩き込まれました。
動いてかせぐこと、現場主義であること、自前のデータを用いること等々、今も大切にしています。
だから、現場のある人、経験で語る人、勉強している人を尊敬しています。
そういう意味では、身近にたくさんの尊敬する人がみえ、師と仰ぐ人が何人もあることはありがたいことだと思っています。
(かっこよく書きすぎかも)
そのなかの、S師と釋S師ことMくんと、ちょっとコアな旅をしました。
旅の終わりに、Mくんが呟いたふたつの疑問が、ずーっと気になっています。
覚如上人が、確固たる意図を持って『御伝鈔』を著述されたことを前提に、
・なぜ、「箱根霊告」「熊野霊告」なのか?(鹿島神宮参拝、善光寺参拝ではないのはなぜか?)
・「熊野霊告」は、親鸞聖人のことば「そのことなり」で結ばれる。『御伝鈔』中、実質的に親鸞聖人の最後の話しことば「そのことなり」の意味は?(文脈から、指示語「その」は何を指すのか?)
この問いを聞き、ボクのなかに何もないことに愕然としました。全く何も答えられませんでした。
Mくんの「若林先生の『熊野霊告』の段を聞いてみたい。」という言葉に激しく同意するのが精一杯。
若林先生に期待しつつ、ボクなりに、問題意識を持って『御伝鈔』を眺める日が続いています。
ちょっともがいて、独善的にまとまったら、またご報告します。
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