16日深夜、帰雲山荘へ。
峠を5つほど越え、御母衣のダム湖畔に着いたのは夜の10時過ぎ。そこからは荒れた林道。轍の合間の草や道の両側から多いかぶさる樹木に、S4の前後のセンサーは鳴りっぱなしでした。
帰雲山荘は、1981年(昭和56年)から約10年かけて仲間と作った丸太小屋です。
帰雲山荘の窓は、廃校になった某小学校の窓。真っ暗な雨の森のなかに、その窓の灯が見えたとき、随分ご無沙汰していたご無礼とともに、一気に懐かしい作業のことを思い出しました。
コールマンのガソリンランタンのみの薄暗い山荘。
何人か眠ってしまいましたが、同志の支離滅裂な宴は延々と続きました。
さんざん楽しい時を過ごし、午前2時、ボクは帰ることに。そのときS氏が「Mちゃん(ボクのこと)、すっかり地域の人になったね。」と。そのことばを聞いて、ボクは、繰り返しになったっとしても、どうしても、M先生のことが話したくなりました。
M先生は、帰雲山荘建設中に知り合った診療所の先生で、当時、ひとりでK村に丸太小屋をつくっていらっしゃいました。
希望して無医村の診療所に来られ、地域医療に尽力されていたのがM先生です。なぜ京都の大学を離れ、町の総合病院を辞められたのかは聞いたことがありません。
数年後、そのM先生が、網走の診療所に行かれることになりました。お別れを言いに行くと、M先生は、当時教員をしていたボクに、思いを少し語ってくださいました。
「教育も同じだと思うのですが、理想をめざすのです。でも、現実はなかなか思い通りにならないものです。そのなかにあって、ただ理想を求めるのではなく、あなたのそばにいる人をたいせつにしてください。私も身近な人から看ていきます。」
当時、どういうことばで語られたかまでは憶えていませんが、要約すると上記のようなことだったと思います。
”あなたのそばにいる人をたいせつにしてください”ということば。寺に帰ってきて、不自由さに逃げ出すことばかり考えていたころ、やがてここしか場所はないかとあきらめたころ、いつも、なんとなく気にしていたことばです。
ある時期から、自分のなかで繰り返すようになりました。とうてい、M先生の思いを受け止めているとは、思えませんが。
そんな話をすると、S氏が、「あのあと、Kさんがバイクで網走の診療所訪ねたら、M先生、『思っていたよりずっと町だった。』と言ってたって。今は、佐渡で離島医療に携わってみえるらしい。」と。
全国走り回っているN氏が「トキの調査があるんだ。こんど、みんなで佐渡へ行こう。」という提案。盛り上がったところで、ボクは今度こそほんとうに帰路に。
いい休暇でした。思い入れがあることだったので、長文になりました。忘れないためにも。
ちょっとカッコよく書き過ぎかもしれません。
”そばにいる人をたいせつにする”って、難しいことですよね。
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