ちょっと一息つけそうな一日のはずだったのですが、急務により大幅に日程変更。よくある話です。
昼食が変則、夕食が遅くなりそう、ということで、コンビニでカレーヌードルを買いました。買ってから、「カレーか!」と思った次第。
カレーロード中とはいえ、このところカレーを食べ損なっているので、まあこれもよし。
山や川や海でへ行くとき、お湯を沸かすストーブ持参の場合は、おおよそカレーヌードルを食べます。カレーヌードルの場合、お湯の量が少なめで、少々濃い味でも、まあまあ食べられるからです。
学生時代のクラブの慣習から、山では、食事の残飯・残汁を出さない(すべて食べる、飲む)という呪縛があり、その観点からすると、カレーヌードルは理にかなった逸材と言えるわけです。
今となっては、どうでもいいようなこだわりですが、身に染みついているようなところがあり・・・。
ボク自身そうなのですが、人は、何かしら理由があれば、それで納得するところがあると思います。
たとえば、山の食事の場合、高カロリーだから、かさばらないから、軽いから、簡易だから等々の理由が通れば、それでいいというような。
実際、それらは、場合によっては、とても大切なことなのですが、普段はそれほど逼迫して遊んでいるわけじゃないので、誤差の範疇というか、まあ、どうでもいいようなことに執着しているような気がします。
少なくとも遊ぶときは、好きな場所で、心地よくおいしいものを食べたい、という本来の欲求のようなものを素直に大切にすれば、それでいいというか。今更ながら、つくづく、そう思います。
ボクは、カレーヌードルが食べたかったんだろうか?
思惟することも、よろこぶこともなく、なんとなく理屈だからという思いこみ、または習慣で、時を過ごしてきたのかなあ、と思うわけです。
凡庸という平穏には、何か取り返しのつかないものが潜んでいるような気がします。
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