結果、どうしても組織論になるのですが・・・。
山行のあと、最も山に入れ込んでいた先輩に思いを述べたことがあります。温厚な先輩でしたが、いらだって「どうしろって言うんや。」と。先輩は、ボクが言いたいこと、わかってくださっていたと思いますが。
そのとき、ボクがWVに合わないんだと思いました。いろいろあって、退部。
ボクは、いつも倫理ということを考えています。
倫理の「倫」は「なかま」という意味。
「理」は「やくそく」という意味です。
あらゆる集団(なかま)には、その集団独自のルール(やくそく)があり、広い意味でそれを倫理といいます。集団の数だけ倫理はあるのです。
倫理は、簡単に言うと仲間内の掟です。ということは、倫理的でないものは仲間の中にいることはできません。結果的にですが、倫理は、仲間はずれをつくるのです。寛容とは、対極的なものだと思います。
ボクはWVの倫理に合いませんでした。ボクの退部は、当然だったと思います。
思うのは、あのとき、WVの倫理にはずれたボクは、何を失ったんだろうということです。
確かに、ボクはwvという組織・仲間に所属するということを失いました。でも、山も失っていなければ、気の合う山の友人も失ってはいないのです。
「倫理」的であったら何を得ていたかわかりませんが、「好き」というワガママで得たものに、何か後悔するようなものはないのです。
仲間からすれば、ワガママは迷惑であり、このうえなく許せないことなのでしょうが。
過日、バックカントリースキーの第一人者のTさんにお会いして、ずっと山に行っていることで意見が一致したことは、ボク流に言うと、こういうことなのだと思います。要は、集団行動が苦手ということ。(違うかな?)
おそらく、仲間というのは、仲間の目的を失いやすい性質なのだと思います。仲間でいることが重要になってくるというか。流行った「絆」ということばの示すところも、そういうことなんでしょう。それが悪いということではありません。その仲間の中では、完璧なことなのですから。複雑ですね。
仲間という字を、社会とか組織とか家族とかサークルとかに置き換えてみるとおもしろいと思います。
お寺に倫理があるとすると、それは、おまいりできる人とおまいりできない人ができるということ。たいへんだけど、倫理のないワガママ放題が、お寺のすがたなんでしょうね。
問題は、ボクには、それを寛容する度量がないということ。
◆写真は2002涸沢。のんびり。
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