『ひよっこ』が終わってしまいました。
初回の田舎の風景に、なんとなく「今回は真剣に見よう。」と思い、あの時代への憧憬、郷愁も重なって、たぶん欠かさず見ました。脚本も演出も、ボクたちの世代の琴線に触れるもので、最後まで楽しく、あるときは感動して見ました。
ひとつ考えさせられたこと。
物語は、出稼ぎに出た東京で記憶を失い、行方不明になった父親をモチーフに、その家族、回りの人々が描かれます。出てくるのはすべて、明も闇もある素敵な人たち。徹底した安心感、心地よさのなかで物語はすすみました。
その中で、ボクはどうしても気になることがありました。よくあるテーゼではあると思いますが。
記憶喪失になった人を描くことで顕になる過去と今ということについてです。当たり前ですが、ボクたちは、今を生きているようで、実は過去を生きている、というようなこと。
こどもが、気を失って約20日間の記憶が消えました。10年ほど前の12月のことです。こどもは、突然の雪景色に驚いていました。前日の忘年会のこと、変えた携帯電話のパスワード、買ってもらった靴のこと、すべて記憶から消えていました。
姪っ子のお祝いに買った黄色いロディが部屋にあるのを見て、なぜロディなのか、なぜ青ではなく黄色なのかと怪訝な顔をしました。ロディの黄色を選んだのは本人です。
人の行い、そこに至る思いや好みのようなもののおぼつかなさを、まじまじと感じました。(こどもの思いや好みの否定ではありません。)
『ひよっこ』で、記憶喪失の父は、娘に発見され、故郷へ帰ります。記憶は戻りません。
そこは故郷なのだろうか?という素朴な疑問。
過去を是とし、まさに今の自分(の暮らし)を捨てるということへの懐疑。
普通、誰でも、過去の思いと今の思いは一致しません。それはそれでいいと思うのです。
そのうえで、では、どれがボクの思いなのか、と考えてみると、どれもボクの思いであるわけです。むしろ決してひとつではない様々な思いを、適宜選んでいる、選択しているというのが今のボク、ということのような気がしています。
要するに、カッコイイことを言っても、それはその場限りで適当に選んだ所詮ワガママでしかないということ。
「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、・・・」であるわけです。(歎異抄 後序)
ならば何に依るか? 歎異抄には「ただ念仏のみぞまことにておはします。」と続きます。
浄土真宗の宗教的なこたえです。
しかしながら、現実の日暮しのボクたちは、今にも過去にも執着しています。おそらく、今の好きを好き、嫌いを嫌い、美しいを美しい、楽しいを楽しいという思いと、また一方、過去のいくつもの好き、嫌い、美しい、楽しいという思いの、結局は取捨選択。
今に執着すれば、過去への無責任・不誠実が生じ、過去に執着すれば、今はどこかでフリをするという無理が生じます。結局、どっちもどっちのおぼつかなさ。
ただ、現実は、どちらかと言うと、今の思いを殺してでも、無責任・不誠実を避け、多少無理をしてでも、今の思いを抑えて無難に振る舞う、というのが世間のような気がします。みんな、積み重ねた過去の自分を裏切らないように、今の自分を隠しつつ、だましだまし装って無理しているのかもしれません。
記憶というもの、それは紛れもない過去の今なのですが、重いですね。せっかくなら、今に執着してみたいと思うのですが・・・。
話が長くなりましたが、記憶喪失で消えてしまった過去にすら縛られるという『ひよっこ』の展開の一部に、何とも言えないやるせなさを感じずにはいられないということが言いたかったのです。
たぶん、知らず知らず過去と今の自分に縛られているんですね。
たぶん、それをストレスというんだと思います。
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