思うところあって、『あしたのジョー』を読み返してみたくなって、オークションで全巻、格安でゲット。
そんな折、朝ドラの『半分、青い』のなかだったり、某会議の市議会議長さんの挨拶だったりに『あしたのジョー』が出てきて、なんとなくうれしい昭和のおっさんになっています。
マンガを買ってもらえる環境になかったので、「巨人の星」は、近所のKちゃんの家の2階にあったのを読みました。「あしたのジョー」は、親戚の家の階段の下に積んであったのを読みました。
いずれも小学生のころのことだと思うので、内容など理解していなくて、ただ見ていただけだったかもしれません。「あしたのジョー」よりは「巨人の星」のほうが面白かったような記憶です。たぶん、単純に、ボクは、ボクシングより野球のほうが好きだったということくらいのこと。
ただ、あるとき、当時のボクからすると、とってもオトナに見えた大学生のTちゃんたちが、”「巨人の星」より断然「あしたのジョー」だよね”みたいな話をしていて、なんとなく、”やっぱり『あしたのジョー』だよね”みたいに思い込んで今に至っています。
ちょっとまじめに書きます。
『あしたのジョー』を再読しようと思ったのは、下記のような話にであったからです。
【ジョーと力石と試合。ジョーのパンチを顔面に受け、力石は試合後死亡。以降、ジョーは、顔面へのパンチが打てない(いわゆるPTSD)。このジョーの、PTSD克服、つまりボクシングへの完全復帰の物語が、『あしたのジョー』。】だとすれば、『あしたのジョー』は、心的ストレスを抱えたものが社会復帰をめざす物語と言える。
昭和という時代は、そういう時代だった。しかし、今は、なんとなくだけど、社会復帰・社会適応が解決ではないと気づきはじめた時代。ボクシングを捨てるというストーリーもありかもしれない。云々。(大意)
こんな視点もあるのかと、もう一度(実は、実質はじめてなのかも)、『あしたのジョー』を読んでみようと思ったわけです。
今、すこしづつ読んでいます。
”ちょっと、まじめに書きます”と大風呂敷を広げましたが、 眠くなったので、以上。
いつかにつづく・・・。
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