M村追弔会
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M村の集会所で追弔会のおつとめとお取り次ぎ。

おつとめは正信偈。

夏休みに、長老方からお経を習った小学生3名が最前列に座りました。全員です。


お取り次ぎは、一座二席。一時半から三時半まで。

休憩入れても二時間は長いなあと思っていましたが、聞き慣れた方々と向かい合っていると、あっという間でした。


お取り次ぎのあと、お世話方のNさんからM村のお話を聞きました。

集会所は、かつてあったお寺の阿弥陀さまがご安置してあり、お寺のようです。村内約40軒で、順番にお仏飯をお供えしていらっしゃるそうです。報恩講と追弔会は、集会所でつとめる村の仏事です。

Nさんお話では、まとまった村ですが、最近、簡素化しようという意見が出るようになったそうです。

ほとけさまを大切にしようという思いだけでなく、村のまとまりとしても、お仏事をつとめていきたいというNさんの気持ち、第三者なりに厳しく受け止めました。田舎のことしかわかりませんが、神さま仏さまのことは、個の信仰であり、村落共同体の鎹(かすがい)です。

ボクは、今面倒だと思うようなことは、昔も面倒だったんじゃないかなあと思っています。どの時代も、たぶん面倒なことは面倒であり、仏事に対する気持ちが変わったわけではないと思うのです。

ただ、面倒だと言いやすくなった、とは言えるかもしれません。また、一人の人間の関わる領域が多岐化し、誰もが、自らに関わることを取捨選択せざるを得ない状況が生まれてきているのだと思います。

簡素化は必然なのでしょう。問題は、何を簡素化するかということです。簡素化は、村落共同体の鎹(かすがい)に向かっていいんだろうかと、ただ単純に、特に理由もなく思っています。

お世話方のNさんの気持ちが痛いほどわかる、というのは、決して驕りではないと思います。



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by e.wash-r | 2019-02-10 23:07 | おまいりにて | Comments(0)
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