今日もムカデの話 ーたてわけということー
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暑い日でした。午後、X家にてご法事。汗をかいて三部経。

お取り次ぎをはじめて、1分くらい経ったところで、ボクとお聴聞の方の間にムカデ出現。普通に、ちょっと混乱。

「押さえて!」
「カーペットの下に入った!」
「そっち!」

そんな叫びが飛び交う中、冷静なX家次男のYくんが、いよいよ捕獲体制に入りました。Yくん、一瞬ためらってやはり冷静に質問。

Yくん:「こんなときに、殺生していいんですか?」

ボク「気にしない方がいいんじゃない!」

無事ムカデは捕獲され、仏間から運び出されて(その後どうなったかは知りません。)、お取り次ぎ再開。


ところで、『こんなときに、殺生していいんですか?』という問いへの答えは、どういうのがいいんでしょうね?

正解は、『そういうことを坊さんに聞いてはいけない。』だと思います。

坊さんには、難しいことはわかりません。経験もそれほどありません。だから、娑婆の有りようを尋ねられても、ひとりよがりの自分の意見を言うことしかできません。

こんなことを書くと、ある種のお坊さんからは批判を受けるかもしれませんが、生き方を語るなら、それはあさはかな人のただの私見だという認識が必要だと思います。そして、私見は仏教ではありません。私見なら私見として述べるべきで、わかってもいない仏教の教えから導きだされるもののように語ったり、教えにあったもののすがたのように語るのは、どう考えても、越権行為です。

『こんなときに、殺生していいんですか?』という問い。「消し去りたい。」という思いと「殺していいのか。」という思いの葛藤。そこにある苦悩。形こそ違え、生きているということはそういうことの繰り返しですよね。

たぶん仏教的な生き方などないのです。その苦悩を見据える慈悲があるのみ。「なんまんだぶ」だけです。


坊さんの言う娑婆のことは、あまり頼りにしないほうがいいと思います。


*写真は過去のものです。

*文に問題あるようなら削除します。




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by e.wash-r | 2019-05-12 23:32 | 愚考 | Comments(5)
Commented by みちのく念仏 at 2019-05-18 23:14 x
おばんです、正蓮寺さま。

ちなみに「おばんです」とは、こんばんはの当地の方言です。

当地では今、ツバメ達が巣作り子育てしております。懸命でありけなげなほど熱心に子ツバメを育てています。

生きていく上で様々関わっていく生き物たち。可愛らしさを感じる時、生命の強さを感じる時、気持ち悪さ嫌悪する時、邪魔と思う時、害を受け殺してしまう時

歎異抄第5条の
「一切の有情はみなもつて世々生々の父母・兄弟なり」

仏法を聞くと虫を、様々な生き物を見る目が変わってしまいます。

以前、鹿児島別院さんの報恩講をお参りした際にその時の布教使さまが法話で「蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。」を紹介されていました。今でも耳に残る言葉です。

宗祖は、ご本典行巻で大経異訳『大阿弥陀経』の一文を引用しておられます。

「第四に願ずらく、〈それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな、八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ〉」と。

その時の布教使さまは、弥陀の本願は、上は善神天神の神々から下は飛びまわる小虫、地にうごめく虫にまでその願い、はたらきが届いている。と隔てないお救いを御取次ぎ下さいました。

その際に、種族の隔てを超えた慈愛の一つとして紹介した写真が

人間の女性が、動物の子豚に自らのお乳を与えている姿でした。

たしか南米原住民の育児年齢に思われる女性(上半身に服をまとわず裸で生活習慣のようです)が、家畜と思われる動物の子に、まるで人間の我が子に母乳を与えるように、家畜の子に与え、またその動物が人間の幼子のように大人しく女性の乳房に吸い付いている姿の写真を見て大いに驚きを感じたのを思い出しました。

種別の差を厭わず、十方の命を目当てにしたお救いの方を阿弥陀仏と申すのだと仰っていたのをこの記事のお蔭で思い出しました。
Commented by みちのく念仏 at 2019-05-18 23:36 x
先のコメントで「慈愛」と書きましたが、「慈しむ姿」と言い換えさせて下さい。愛は仏教的に迷いなのでしょう。

ところで今年の美濃四十八座ですが、ご実家が広島県のの一般家庭で、念仏者だった祖母様のお育てで布教を志され今、福岡のご寺院ご住職の松月先生がお取り次下さいますね。

縁あって最近、松月先生のご法話をお聞きする機会がありまして、とても心に響くお救いの話をして下さいました。

その松月先生が一年二度も講師をお務め下さるなんて美濃組はすごいご縁と人脈をお持ちですね、羨ましいです。松月先生を始め、小林先生、安方先生、水杉先生、成先生と令和元年のお座は、聞かぬのでは人生最大の後悔と思えるほどの幸運なお座に感じます。

行かないなんて、聞かないなんて、勿体ない。

Commented by e.wash-r at 2019-05-21 03:24
わたしたちが、好意・嫌悪・損得等でしか見られない分別の世界を、ほとけさまは隔てのない慈悲でお包みくださる、ということ、そのお慈悲が有り難いですね。わたしたちは、いっこうに変わらないのに。

松月先生のお話を聞かれたのですね。

松月先生は、美濃四十八座が連携する前、最初の最初の正尊寺真宗講座のご講師さまでした。はじまりの頃より、お座を育ててくださった先生のおひとりです。

美濃四十八座、遠いですが、ご縁があれば是非お越しください。自坊のお座のときは、十分な余裕がないかもしれませんが、状況によっては、拙寺でお泊まりいいただくこともできるかと思います。

ご縁の広がり、うれしいですね。

Commented at 2019-05-30 22:54 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by e.wash-r at 2019-06-29 22:21
ここ5・6年、東北へ行きたいとずっと思い続けています。

決断できないでいます。
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