妙円寺真宗講座夜座のお聴聞。ご講師は、兵庫の池本史朗師。
岐阜という江戸と上方の間の田舎にいるせいか、関東のことばを話す人はインテリ系に、関西のことばを話す人はお笑い系に見えてしまいます。(ちなみに、東北や九州のことばは、異国の感じがします。でも、北海道や沖縄のことばは、ともだちが話しているような気がします。ボクの場合です。)
関西のことばのお取り次ぎ。本堂は、笑い声が絶えませんでした。標準語や岐阜のことばでは生まれない雰囲気だったと思います。
私と闇と光のお話、お慈悲の確かさは、アミタ(無量)という寿によるというお話でした。
涼しい夜の本堂へ、ちょっと、追われる日常から避難させていただきました。
寺の惨状を知って、たぶん手伝うつもりで急遽帰省した長男と坊守と3人でお聴聞。お聴聞の上で、帰宅後談合となりました。昼座お聴聞の法友のlogも見ながら。
法友のUPした板書の写真を見て、談合はヒートアップ。
板書の写真には、和讃と数式。
『
清風宝樹をふくときは
いつつの音声いだしつつ
宮商和して自然なり
清浄勲を礼すべし
同
1+2=3
合
』
「和讃は、お浄土のお話、不協和音を和すお慈悲の不思議をよろこぶ歌やよね。ところで、この数式は何やろ?」と、お取り次ぎも聞かずの擬似談合。明らかに横着な暴走。
ただ、板書の意味とは関係ないですが、若院の話したことが面白かったです。
「足し算や引き算で、他力を表すのは難しいよね。行を成就して証に至るという自力なら、表現できなくもないと思うけど。
もし、あえて数式で、他力の“わたし”と“ほとけさま”を表すなら、掛け算かなあ。
a×0=0 (a=わたし、0=ほとけさま)
“ほとけさま”が0の掛け算なら、まあ、なんとなく、らしい式になると思う。」
なるほど、と思いました。
おもしろい話だったので、もう少しいじくってみました。
0÷a=0 (a=わたし、0=ほとけさま)
でもいいような気がします。
雰囲気のことですが、
a×0=0は、お慈悲の働きとわたしを表す(約仏)
0÷a=0は、不実のわたしとお慈悲を表す(約生)
*ただしa≠0というじょうけんつき
のような感じかなあ。
やっぱり、約仏がいいですね。
たまたま、今朝、青木新門さんが、0について書いていらっしゃるました。若院の論理とはちょっと違うような気がしますが、0というのがインド発祥という点では、通ずるものがあるかもしれません。