3連休最後のおまいりを終え、ぐたーっとしたくて寺に帰ると、坊守が「X先生から電話があったよ。blogの内容のこと。またなにか変なこと書いたの?」と。
尊敬するX先生から電話というだけで緊張するのに、坊守の言うように、blogになにか決定的な間違いを書いてしまったのだったら、と思うと気が気ではありません。
X先生は、9時頃また電話するとおっしゃったそうです。9時までの約1時間半、当て所もなく自分のlogを読み返し、心穏やかでない時間を過ごしました。
昔、当blogを読んで、「死にます。」とコメントしてきた方がありました。娑婆の死は不可逆的です。「死にます。」というのは、その方が死ぬということなので、必死で対応し、なんとかネット上ではなくリアルなコンタクトを取りました。
対応していくなかで、「死にます。」というコメントが、ほんとうに「死ぬ」ということだったのか、途中からは怪しいと思いましたが、最後まで張り詰めたキツイ緊張感は続きました。
そのときの緊張と同じくらいの緊張。そして9時過ぎ、X先生からの電話。
内容は、「●●●●について調べていていて、検索したら『西蔵坊だより』がヒットしました。そこに書いてあった◆◆◆◆について、もう少し詳しく・・・” というお尋ねでした。
「書いた内容を覚えていないので、その部分読み直して、もっと詳しい内容をお知らせできるようなら、お電話します・・・ 」とお伝えしました。少し調べてみようと思っています。
”internetの原則はoutput”というスタンスで、たまにゴタゴタしながら、臆面もなく15年も書き続けていると、自慢のようですが、ときどき検索にも引っかるようです。
調べものをしていると、検索で『西蔵坊だより』がヒットすること、意外とあります。logの内容をすっかり忘れていて、なるほど、と思うようなこともあれば、恥ずかしくなるようなことも。
以前にも書きましたが、長男が卒論のことで質問をしてきたので、「検索してみたら」と答えたら、「検索したら、父ちゃんの記事しか出てこなかった・・・」というようなこともありました。
膨大なlogに責任を持てるか、というとかなり不安です。そういう意味では、最近は、事なかれ主義のおべっかも書いていますし、腹立たしいことであっても、批判的には書かず淡々と書くようにしているつもりです。(わかる人にはバレてるみたいですけど。)
自分自身にもいえるのですが、批判がないところでは人は増長します。自身のことはさておき、本当は、批判はするべきだと思ってはいるのです。嫌われたくはないですが。
『西蔵坊だより』 はボクのlogであり、ボクのそらごとたわごと、と開き直ることができます。そもそも、「ボク」を主語として書くことを意識しているわだし・・・。
でもね、字の通りで、お取り次ぎは、そういうものじゃないですよね。お取り次ぎが、批判がタブーのようなオトナの社会構造のなかにおさまってしまっていいのかなあ・・・と、僭越ながらとっても危惧しています。
『西蔵坊だより』の行方、迷ってます。