【テキスト版】
『曇鸞大師 ①』 関市・光圓寺 日野安晃
曇鸞大師は、天親菩薩から5百年ほど後、南北朝時代の中国で活躍されました。梁の天子蕭王が、常に大師のいらっしゃる方角に向かって礼拝したといいます。大師の名声が当時いかに高かったかがうかがわれますが、このことに親鸞聖人が注目されるのは、指導的立場におられる人が仏法を篤く敬われておられた、ということによほど感激されたのだと思われます。
大師ははじめ、龍樹菩薩の顕された「空」の思想を学ばれました。『中論』『百論』『十二門論』『大智度論』など、難解な論書の講義をされるほどの大変な学者でしたが、『大集経』という大部の経典の注釈書にとりかかられたときに病を得、快癒したものの、長寿を得ねばとてもこの仕事はやり遂げることができないと、不老長寿の法を求めて、江南に、仙術を極めたという陶弘景を訪ねます。
大師は学者として、哲学的に難解な「空」の思想を身につけておられました。あらゆる執着を離れ、生死さえも超えた大安心の境地を講義しておられたはずが、たまたま病気になってみると、日頃の学問もまるで役に立たず、まだ死ぬわけにはいかん、とうろたえねばならなかったのです。もっとも大師の場合、仏教を学び、また、多くの人に広めるために健康で長生きがしたいというのですから私たちにはなかなか真似のできないことですが、皆さんはこれをどう思われますか?
まあ、お寺のご院さんがこっそりお多賀さんに参詣するようなものでかっこ悪い話ではありますが、もともと優秀な方でしたから、三年ほどの修行で不老長寿の秘法に通達し仙経を付属されたといいます。付属というのは、暖簾分けみたいなことですからさすがは曇鸞大師、と言いたいところですが本当にすごいところは次回となります。
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『西蔵坊だより』は、 森鏡山 正蓮寺の住職の日記です。
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