いつか  -「ごきぶり丸」の続きです。-

"いつか"、「命の尊厳」ということについて、ボクの思いを述べる"約束"でした。

特に勉強したわけでなく、何かの裏付けがあるわけでなく、まして、出拠(しゅっこ)があるわけではないので、稚拙な私見ですが、一応書きます。

 * 出拠(しゅっこ):依りどころとなる経典の文言。

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ごきぶり青年団」に、生についてのふたつの見解を見ることができます。

ひとつは、

① "たとえ第3次世界大戦が起きて、地球が核に汚染されたとしても、必ず生き残       ってみせる"という崇高な生への執着。

もうひとつは、

② ごきぶりを殺してはならない。

ということ。

ボクなりに、命のという観点で受けとめてみると・・・。

① 我が生は、他の命の上に成り立っています。

② 他の命への愛着(例えばごきぶりを愛でるということ)は、その命と対峙する命にたい   しては、無頓着です。


ある命の尊厳は、他の命の尊厳を損なっているという実態があります。そう思うと、ボクたちが言う「命の尊厳」ということばは、厳密に言えば、大切にしたい命と損なっていい命とを選別することを内包する矛盾に満ちた麗句なのでしょう。

ボクが命の尊厳を謳うとき、それは我が命の尊厳であり、ボクの好みの命についての尊厳なのです。ある意味、極めて利己的な主張を繰り返すのが、悲しいかなボクたちの姿であり、娑婆の有様なのです。

「命の尊厳」の迷路に迷い込むことが目的ではないので、実際にできることは何かを考えるとするなら、それは、一応自己責任で、おもいっきり「好きなこと、できることをする」ことしかないと思います。それも、できれば楽しい方がいい。ボクは、それを遊びだと思っています。

遊びは安心の中にあります。安心は救いです。過去のblogより再記します。


  いのちは誰のものか。

  それは、いのちを損ない傷つけようとするもののものではなく、
  育み生かそうとするもののものである。 -シッダルダ少年時代の物語より-

  いのちを育み生かそうとするもの、それを仏の慈悲といいます。



人の罪深さやおぼつかない良心を依りどころとしますか。
それより、仏の慈悲を依りどころとしませんか。





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by e.wash-r | 2007-05-12 07:48 | 智慧と慈悲 | Comments(0)
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