2016年 11月 17日 ( 1 )
美濃四十八座 黄鐘会冬座 成照星師
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成先生をお迎えして、美濃四十八座・第23回正蓮寺真宗講座・黄鐘会冬座をつとめました。

「たて分け」ということばに代表される先生のお話のスタイルのままに、終始一貫して、丁寧な他力のご法義をお取り次ぎいただきました。

ボクたちが分別智しか持ち合わせない以上、法話とは言え、何に執着し、何が語られるのかという大前提、言ってみれば、少なくともなんとか共有できるモノサシが必要です。

先生の話は、いつもそこからはじまります。仏教におけることばの定義、その共通理解があって、はじめて、ともに分別智の中の、ほぼ同じ仏教の論理が展開されるわけで、普段、生活のなかで使うことばであればあるほど、丁寧に用いられお話しをされる先生の思いを、真摯に受け止めたつもりです。


受け取るお慈悲はそのまま。どう受け取るかはボク次第。

受け取ったボクが規定される普遍的な因果関係の科学とは趣の違う、迷いのままの私のうえに成立する因果の道理、有り難く聞かせていただきました。

お座のあと、先生は「ちょっと難しいたとえだったかな、ほかの言い方のほうがよかったかもしれない・・・」とおっしゃいました。難しかったです。でも、お同行は身を乗り出して聞いていらっしゃいました。

先生にもお同行にも失礼な言い方になりますが、ボクたちは、わからないときも、間違いのないお慈悲が語られている、そう思って聞き入っていました。わからないときも、本堂で今、仏法が説かれている、そう思って同座していました。

おみのりが取り次がれるということ。ボクは、間違いなく、それがお座の姿だと思っています。生意気に言えば、お寺の存在する意味だと思っています。

そういう意味で、当たり前のことととは言え、ボクは住職として、お座をたてることができたと実感していました。むちゃくちゃうれしい気持ちでいました。


世間のことを知らされて、世間の生き方を身につけることができたとしても、それをお座とはいいません。(ボクはそう思っています。)

”ご講師をお招きした住職がひとりよろこべば、それでお座は成り立つ”という美濃四十八座のコンセプトのひとつ。おみのりが説かれ、おみのりを聞く。それだけ。

夜座が終わったとき、ここにお寺があってよかった、と思いました。




                    
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by e.wash-r | 2016-11-17 23:52 | お聴聞 | Comments(2)