カテゴリ:愚考( 16 )
桃太郎の桃のはちまき
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高校の頃、『ロッキング・オン』という雑誌に大友克洋が連載していた童話のパロディを楽しみに読んでいました。

『金の斧、銀の斧』の編は、誤って斧を池に投げ込んだ木こりの前に、頭に金と銀と鉄の斧が刺さった血まみれの女神が池から現れるというものだったように記憶しています。

その頃からずっと思っていること。

桃太郎のはちまきの下には、おじいさんが桃を割るとき、勢い余って桃太郎の額につけてしまった包丁傷が隠されているのではないかと・・・。

ネットで軽く検索してみましたが、そういう記述は、自分のblog以外に見あたりませんでした。ひょっとすると、出生の秘密の重大な証拠を、ボクは暴いてしまったのかも知れません。


その桃太郎の物語について、もうひとつ、ボクが気になっている記述があります。

tumblrで流れてきた”お婆さんに拾われなかった桃の流れ着く先が鬼ヶ島なのではないか。”という誰かのつぶやきです。

しみじみ味わってしまうわけです。


さて、11月21日の黄鐘会の挨拶で、何か気の利いたことが言えたら思っていたところに、tumblrで面白いつぶやきが流れてきました。

”天狗はピノキオが野生化したもの”

我が身を省みると、ちょっとゾッとすることばです。

ところで「天狗」って何者?と思い、お手軽にネットで調べてみました。そのなかの一説に、仏教を間違って解釈したもの、つまり増上慢のものが陥る世界を天狗道というものがありました。

「天狗になる」という慣用句が、「自惚れること」「慢心」を意味することを思うと、一説とは言え、なかなか示唆に富む話だと思います。


嘘つき(妄語)のピノキオが、野生化して増上慢の天狗になる・・・

私を語っても、あまり真実はありません。放っておくと道を外れ、うぬぼれの塊になる・・・


耳の痛いことです。


ということで、やっぱり阿弥陀さん。「ピノキオであっても、天狗になってしまったとしても、今日は、ただほとけさまのお慈悲の話を聞きましょう。」という挨拶をしました。



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by e.wash-r | 2018-11-30 23:15 | 愚考 | Comments(0)
モザイク有り
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23日夕刻、友人から、何かただごとならぬLINE。

そのことについて、夜中にようやく確認。

以下のように、友人に返信しました。(プライベートな文なので、全文そのままには、とても転載できません。)



『読みました。ため息ですね。

中央には、物言える人いないんですかね。

****************************************************かな。

「*さま」の部分を「いつくしみ深き友なる***」にしても、「全能なるアラーの*」にしても、「将軍さま」にしても、大丈夫な文ですね。**************************************がにじみ出ているような気がします。

せっかくなら、小学校の道徳の教科書に載せてもらうように運動したらいいのに。

宗教色がないから、と意外と採用されたりして。

もう一度、ため息です。』



一部を伏せ字にしなければならないさみしさ。

これは、「踏み絵」か、それとも当流「文化大革命」がはじまるのか・・・。


「私たち」のことだから、そらごとたわごとまことあるなきに、そう聞けばいいか・・・と思ってはみるのですが、悲しい。


自己満足のわかりにくいlogで申し訳ありません。
ちょっと違うけど、以前のlogのこんな気持ちです。






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by e.wash-r | 2018-11-23 23:25 | 愚考 | Comments(0)
手前味噌、若しくは机上の空論
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Tumblrで、”アメリカの諺に「机の上を整然ときれいにしているやつの頭の中身は大体空っぽ」というものがあるらしい。”というテキストが流れてきました。

信憑性は???だと思います。軽くsurfingしてみましたが確認できませんでした。


「机の上を整然ときれいにしているやつの頭の中身は大体空っぽ」かどうかはわかりません。でも、少なくとも、机の上が雑然としているボクの頭の中は、雑念・妄想でいっぱい、ということは自信を持って言えます。


ところで、本題とは直接関係ないですが、「頭の中が空っぽ」というのは、お悟りとも言えなくはないわけで。
かと言って、机の上をきれいにすれば、お悟りに至るというわけではないわけで。


整然としていなくてもいいような気になってきます。



・・・とりあえず、仕事はかどっていません。




by e.wash-r | 2018-11-09 23:42 | 愚考 | Comments(0)
世のため人のため
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浄土真宗の生活信条は、勝如上人が1958年発布の『御消息』でお示しになられたものです。

ある方が、「私は前半で十分。」の意を、”本当はそんなこと言ってはいけないんだけど・・・”と遠慮気味のおっしゃったことがありました。

”本当はそんなこと言ってはいけないんだけど”、ボクもそう思いました。



人のせいにして、続けます。


tumblrで流れてきたテキスト。

【1対1なら「あなたのため」、世間に向けては「世のため人のため」。これを口にしただけでその人の信頼度は大きく低下する。】

性格の悪いボクは、「そうだよな。」と思うわけです。

さらに余分なことを言うようですが、自分の行為を自ら「報恩行」と言うのも、なんだかなあ、と思うわけです。すればいいし、したのならそれだけのこと、じゃんじゃん、でいいんじゃないかなあ、と。なお、ボクも「御恩報謝」「報恩行」と、さんざん言いますけど。



浄土真宗の生活信条の4番目。

み仏の恵みを喜び 互いにうやまい助けあい 社会のために尽します


そうなんだけど、社会というのはそういうものであり、それでもそうはいかないところに、み仏の恵みはそそがれているわけで・・・。




*毎度のことですが、宗門人として問題がある内容だったら、即、消します。



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by e.wash-r | 2018-11-07 22:28 | 愚考 | Comments(0)
家族葬とか
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いわゆる「家族葬」が増えてきました。
「家族葬」の定義がないので、「家族葬」云々の話はややこしいいことになります。

以下は、いわゆる近隣縁者のとりもつ従来の葬儀ではなく、家族(身内)で完結させようとする葬儀を「家族葬」と仮定しての話しです。

このごろ、このような形態の葬儀の場合、いわゆる「出棺」のとき(自宅から葬儀場へ向かうとき)に、通夜葬儀に参列されない近隣の方々がお見送りされることが増えてきたように思います。考えてみれば、新しいけど、実は古いパターン。

儀礼儀式というものは、原則をなんとなく踏襲しながら、なんとなく変わってゆくものなのかも知れません。


お参りの方々が、家族兄弟だけ、という法事も増えてきました。


思うことは、「家族葬」であっても、家族兄弟だけの法事であっても、それでもまだ、ご院さんがいっしょということです。

祖父(先々代)が常に言っていたこととして伝え聞いていることがあります。

ご門徒とお寺の付き合いは、親戚よりも長い。
親戚付き合いは、せいぜい3~4代。
ご門徒とお寺は、開闢以来。


確かに、たとえば、本家さんがいらっしゃらない法事でも、ボクはいるわけで。

世の中どんどん変わっていくんでしょうが、ボーズとしては、最低限、まだつながっているご縁にあったならば、そこで最大のパフォーマンスをしたいと思うわけです。


またカッコいいことを書いてしまった・・・
そのうちカッコ悪いことになりそう・・・



*写真は、Xさんの出棺を見送る近所の方々。数年前。


◆最近、疲れがとれません。昨晩遅かったこともあり、今朝は9時まで寝ました。ぐっすり休んだみたいですが、眠った時間がずれただけ。
◆7時から黒野組広報部会。間に合わないと連絡してありましたが、7時半には、もう終わったそうで、遅刻にもならず欠席。

by e.wash-r | 2018-10-30 23:03 | 愚考 | Comments(0)
柿の葉
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T家おじょうはん。

おまいりを終え、縁をでると、庭の柿の木の下にきれいな柿の葉。気に入ったのを一枚拾うと、Tさんが「病気なんだけどね。」と。

本来の柿の紅葉は、柿紅葉といわれるほどの赤。落葉病という病気になると、複雑なまだら模様となり、早く色づき落葉するのだそうです。


人間が考えてできる美しさじゃないなあ、俗にいう自然の作り出す造形美だなあ、と思って眺めたのですが、ボクが拾ったのは、その落葉病の葉っぱらしいのです。


病んだものを美しいと思う感性を、ボク(たち)は持ち合わせているみたいです。

そもそも、病んだものって何?(WHOとかのじゃなくて)


要するに、よくわからないけど、みんな個性という病いなんですよね。



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by e.wash-r | 2018-10-18 23:28 | 愚考 | Comments(0)
加賀友禅と大樋焼を見た(だけ)
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山の帰り道、金沢の「おっちゃん」こと、古民芸商のNさんを訪ねました。もう日が暮れていて、閉店間際のほんの30分ほど。

おっちゃんと京都で知り合ってから、もう20年ほどになります。漆器のことはたくさん教えていただきましたが、今回、20年経ってはじめて、金沢の伝統工芸である加賀友禅と大樋焼の話を聞きました。


「加賀友禅」も「大樋焼」も、よく似た成立の過程だと思いました。

加賀藩、前田家の庇護と家元制のような徒弟制度。
京都の工芸技術(京友禅、楽焼き)の受け入れと独自発展。


今は(明治以降ずっとそうなのですが)、前田家のような、超強力な旦那衆・パトロンがいない時代です。、伝統工芸が、伝統を引き継ぐことが、ほんとうに厳しい時代が続いているのだと、つくづく思います。

お金のある方々が、別の意味で生き残りをかけて、時流に合った投資をしてゆかれるのは、たぶん当然のことなのでしょう。

ならば、せめて、庶民の中の小金持ちの方々が、クルマや海外旅行やグルメ、儲け話に投資する分のいくらかを、伝統工芸に向けられたらいいのに、と勝手に思ったりしています。

伝統工芸のよさが伝わらない時代故かも知れません。ほんとうは単に経済の問題ではなく、文化の問題でもあるのですから。


ボクがパトロンになる!という気概がないことには、このlogには何の意味も迫力もないのですが。嗚呼。



◆連休。なぜか中日に法要・仏事が集中。疲労困憊。
◆連休。帰省の若者、休みのこどものおまいりが多くてうれしい。
◆お墓のおつとめ。若い当主に「やっぱり座禅をしていると蚊に刺されても痒くないんですね。あの蚊の大群のなかで、お経を読み続けられたので感心しました。」と言われました。「痒かったし、掻きながらおつとめしていました。」と答えました。そのあと、仏間で、ゆっくり他力の話ができました。ぼちぼち。
◆お取越し、はじまりました。


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by e.wash-r | 2018-10-07 23:01 | 愚考 | Comments(0)
台風一過に寄せて
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昨晩は、相当の覚悟をしていましたが、幸い、当地においては、台風24号の被害は特になかったように思います。

被害にあわれた方々には、お見舞い申し上げます。


あくまで、”当地”における「台風」考。(主語・主体は”当地”になります。)

この一月の間に、ふたつの台風が当地近くを通り過ぎていきました。21号と24号。


21号は、琵琶湖西岸を通り、日本海に抜けました。
当地の北を通過したことになります。

24号は、木曽三川河口を通り、関東を縦断しました。
当地の南を通過したことになります。


ほぼ同じ規模・性格のふたつの台風が、それぞれ当地の、北と南を通過したということです。


ふたつの台風を経験して、『台風の進行方向に対して右側の方が風が強い。』という論理は、当地については、見事に当てはまっていました。

当地では、『台風が北を通ると風が強い。』といいます。
また、『南東の風が怖い。』ともいいます。

このふたつは、台風の経路と風の関係のうえでほぼ同義語です。北を通過した21号の被害が大きかったことは、当地の俚諺のそのままです。

あらためて、気象・天候についての伝統的な言い伝えと自然科学の論理性・自然に翻弄された歴史の帰納の一致に感動します。


ただ、わかっていてもどうすることも出来ない領域・規模のことがあるのも事実。悩ましいところです。


宮沢賢治が、

雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ・・・

と、詠んだうえで、

サウイフモノニ
ワタシハナリタイ

と、自身も含めた自然を諦観しきれないことばで結び、さらに法語を続けたことに、どういう思いがあったのだろう、と想像しています。


宮沢賢治には失礼ですが、ボクは、

雨にも負け
風にも負け
雪にも夏の暑さにも負ける

でも娑婆のことは娑婆の論理で始末をつけよう、と思うわけです。
それが正しいかどうか分からないし、たいていうまくはいかないのですが・・・。

南無阿弥陀仏




◆眠い。とにかく眠い。
◆台風一過の晴天。雨戸の片付けは乾くのを待って明日。落ちた銀杏を拾い、落ち葉を掃くのも濡れているので明日。得意の先延ばし。本堂だけは、終日全開にして風を通しました。
◆母と坊守と、父の法事の相談。前回の法事の写真・記録等を見返して。手間をかけるには、母も坊守もボクも年をとった、ということで、どうするか思案中。

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by e.wash-r | 2018-10-01 23:00 | 愚考 | Comments(0)
亀屋陸奥&辻利
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9月22・23・24日の三連休。24日の月曜日はお茶の日だったはず。

お茶の先生こと坊守は、夕方まで忘れていて、あわてて準備してました。

Iちゃん、Maちゃん、Miちゃんはというと、これまた全員忘れていた模様。参集なしで、稽古、休みになりました。

せっかく京都の亀屋陸奥の松風と辻利の生八ツ橋があったのに・・・。

こういう日もあります。


厳しい人には批判を受けそうですが、ちょっと発想を変えてみます。

普通、塾やクラブなどは休みません。さぼりません。あまり忘れたりしません。忘れていても、気がついたら慌てて行きます。たぶん。

そうしなければならないから。
約束だから。
叱られるから。
置いていかれるから。
迷惑をかけるから。
お金を払ってあるから。
「好きだから」


こんな感じで、稽古事、習い事のモチベーションはいろいろですが、ボクは単純に「好きだから」というのが好きです。

が、有象無象のシガラミというものも、必ずあります。
「好き」でも、おおよそ面倒くさいときもあるものです。

何が言いたいかと言うと、「好き」なことならサボってもいいんじゃないか?ということです。秩序は必要ですから「好き勝手」がいいとは思いませんが、『「好き」だけど今日はやめとこう。』というのはありのような気がするのです。

要するに、先生も生徒もみんなお茶の稽古のこと忘れていて、なんとなく最後はそのことにみんな気がついたんだけど、今日は休み!ということになるのって、なんとなく健全かな、と思うわけです。

「好き」ならまたできるわけで、サボったところで「好き」に変わりはないわけで・・・。


逆に言うと、サボってもいいのに、来ても来なくてもいいのに、みんなお茶の稽古に来るんです。よくよく考えてみたら、稀有なことですよね。

つくづく、「好き」ってスゴイ!
・・・お菓子の魅力ってスゴイ!


◆高校のプチ同窓会。40年前と変わらない先生と変わってしまったボクたち。
◆社会の抱える問題をじっくり聞きました。みんな苦悩してます。
◆3連休最後の日の柳ヶ瀬は、ボクが知る限り最高に閑散としていました。
◆熟睡しました。と言っても珍しく起きても覚えている夢を見たのでそうでもないかも。電車とバスに乗って、行き先間違えて、引き換えした夢。悶々。

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by e.wash-r | 2018-09-24 23:12 | 愚考 | Comments(0)
『あしたのジョー』再読

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思うところあって、『あしたのジョー』を読み返してみたくなって、オークションで全巻、格安でゲット。

そんな折、朝ドラの『半分、青い』のなかだったり、某会議の市議会議長さんの挨拶だったりに『あしたのジョー』が出てきて、なんとなくうれしい昭和のおっさんになっています。


マンガを買ってもらえる環境になかったので、「巨人の星」は、近所のKちゃんの家の2階にあったのを読みました。「あしたのジョー」は、親戚の家の階段の下に積んであったのを読みました。

いずれも小学生のころのことだと思うので、内容など理解していなくて、ただ見ていただけだったかもしれません。「あしたのジョー」よりは「巨人の星」のほうが面白かったような記憶です。たぶん、単純に、ボクは、ボクシングより野球のほうが好きだったということくらいのこと。

ただ、あるとき、当時のボクからすると、とってもオトナに見えた大学生のTちゃんたちが、”「巨人の星」より断然「あしたのジョー」だよね”みたいな話をしていて、なんとなく、”やっぱり『あしたのジョー』だよね”みたいに思い込んで今に至っています。


ちょっとまじめに書きます。

『あしたのジョー』を再読しようと思ったのは、下記のような話にであったからです。


【ジョーと力石と試合。ジョーのパンチを顔面に受け、力石は試合後死亡。以降、ジョーは、顔面へのパンチが打てない(いわゆるPTSD)このジョーの、PTSD克服、つまりボクシングへの完全復帰の物語が、『あしたのジョー』。】だとすれば、『あしたのジョー』は、心的ストレスを抱えたものが社会復帰をめざす物語と言える。
昭和という時代は、そういう時代だった。しかし、今は、なんとなくだけど、社会復帰・社会適応が解決ではないと気づきはじめた時代。ボクシングを捨てるというストーリーもありかもしれない。云々。(大意)


こんな視点もあるのかと、もう一度(実は、実質はじめてなのかも)、『あしたのジョー』を読んでみようと思ったわけです。

今、すこしづつ読んでいます。

”ちょっと、まじめに書きます”と大風呂敷を広げましたが、 眠くなったので、以上。

いつかにつづく・・・。


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by e.wash-r | 2018-04-20 23:23 | 愚考 | Comments(0)